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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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形骸を破壊する

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 形式主義について書いてきましたが、ここで技術論を少し書きましょう。

 体内で力が運用されることを学べば(運気、用勁)べば、外面の形式にとらわれる必要はなくなります。

 しかし、それが出来なければ形から入ることにはなるでしょう。

 形のまま内力が使えなければここまで書いてきた人たちのように、やみくもに嫌がるだけの状態になって硬直してしまう。

 この硬直した状態だと、相手は扱いが難しくなるように思えます。

 だから硬直する人たちはそれを万能感として行う習性がある。

 万能感とは幼児期に人が覚える、困難に直面した時にとにかく縋り付く行為のことです。

 ある人は祈る。ある人は泣き叫ぶ、ある人はしがみつく。

 みんな無力な赤ん坊が行うある種のパニックです。これが大人になっても咄嗟に出るのは一種の幼児退行と言えるでしょう。

 しかしこの万能感自体は、明確なパニックに至らなくても通常誰しも影を垣間見せるものです。

 ある人は何か困ると薄ら笑いをする。ある人はとにかく嘘をつく。ある人は目をそらす。

 これらは突然何かにしがみついたり泣き叫ぶよりも社会性が高い反応なので悪目立ちはしませんが、結局はストレス反応として自分の内側にあるこれさえすれば大丈夫なのではないかという信仰の領域に至っているので同じ万能感と言えます。

 私の場合はとにかく観察と考察に至る。

 困れば困るほど自分でどうにかしなければいけないと思ってそうなってしまいます。結果、即断と反射神経のみが必要な状況の場合には不適切な選択となって出遅れてしまう。

 このような物が万能感です。個々必ずそれぞれの万能感があります。

 これが強くなってコントロールが出来なくなったり、日常生活に問題をきたすようになると精神の専門家の手助けが必要になってきます。

 やたらに攻撃をしたりヒステリーを起こすような人はこの典型ですね。人格障害の一因足りえます。

 もともと発達障害で万能感が強すぎる場合はこれが二次障害になりますね。うちにもそういう人が沢山いました。

 私は発達障害の人は問題にしませんが、人格障害者の参加は断固拒否しています。万能感のために練習中に関係ないことに専念し始めることが多すぎる。

 みんなが練習している真ん中で膝を抱えてうずくまり始めたり、無意味に他人を武器で攻撃し始めたりいわれのない言いがかりをつけて暴言を吐き始めたり。さらにひどい奴は意味不明の嘘を連投し始めたり人の物を盗み始めたり。それがストレスに対する解消手段だと万能感が固定しているのでしょう。

 ごみの役にも立たない本人だけが有効だと思っている謎の処世術を発揮し始めてちっとも学ぶべき内容を会得しようとしない。

 もしこれを武術的に言うなら、相手にとってとても有効なことです。

 敵を侮辱したり脅かしたりして冷静さを失わせて、適切な行動が出来ないようにするというのは、中国の兵法では重視されていることです。

 武術はそのまま兵法とイコールではありませんが、技術上は通じるところもあります。

 その中の一つが扣打という物です。

 これは蔡李佛拳の常とう手段となっています。 

 中国語が堪能な人に「扣」とは何か? と訊くと「東坡肉」という答えが返ってきました。

 柔らかい状態の生のお肉を煮かためてホロホロの状態にするときなどに使われる言葉のようです。

 良い東坡肉はお箸で崩れますね。生のままではなまくらの包丁では切れないくらいなのに。

 そういうことなのです。

 生のままでは弾力があって攻撃が通らない物を、お箸で切れるくらいに固めてしまう。それが扣打です。

 具体的に言うと相手を掴んで固めます。

 掴むことを拿と言ってこれは十字訣に入っている基礎要項なのですが、その拿によって相手を固めてしまうと扣となります。

 掴んだだけでは相手はまだ自由な場合があります。むしろ片腕を使ってるだけ自分が不利な場合だってありうる。

 ナイフを持った相手のジャンパーの裾などにすがったら、むしろ相手に協力しているようになりうることだってありえます。

 そうではなくて、掴んだ状態から相手が硬直した状態に持ってゆく。

 これまでに書いてきた万能感で死力に硬直してしまった状態が東坡肉です。

 相手を片手で掴んで殴るだけではバタバタ抵抗してやりづらいかもしれない。 

 しかし、相手を投げようとしり、関節技にかけようとしたら相手が嫌がってこわばるかもしれない。

 そのこわばったときが、思うさまに中心に向かって強烈な一撃を放てる時です。

 その一撃が扣打です。

 日本武術でいう居着いた状態にしてやるわけですね。

 形が無い自由に動いて捉えどころがない力を、相手自らが固まったような状態にしておいて打ち砕く。

 この扣打までの一連の流れまでが計算された上で技術は完成されています。

 それが出来るようになるまでには、形式を一つ一つ覚える必要があるかもしれません。

 しかしいつまでもそんなところに拘っていても意味が無い。それこそ自分の人生や存在そのものが扣になってしまっている。

 あまりに無力で脆い。

 自由を獲得するために初歩の確認として足場を理解するだけなので、いつまでもそんなところにしがみついていてはいつまでたっても飛び立てない。


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