アメリカでそのような民主主義の立場の確立とその反省が行われている一方、現在の日本の民主主義状況はいかがでしょうか?
「民主主義ってなんだっけ?」と大声で独り言を言いながら悩んでいた人が居ましたが、民主主義ってそういう物ですよ。
日本では、そのような民主主義の形というものが練磨されることが非常に薄かったのではないでしょうか。
1972年、アメリカではウォーター・ゲート事件が起きます。
これは、アメリカ政府、および大統領が民主主義上の人権にもとる行為をしていたことが発覚して、大統領が辞任するに至ったという事件です。
正直これ、いまの私たちからすると政府がそういうことするのは当然なのにそれほど大騒ぎすることだろうか? という風に思ったりしないでしょうか。
それが日本人の民主主義観なのではないかと思います。
この面に関してアメリカ人はもっと深刻なのでしょう。
この事件は最初「何者か」がこの不正の指揮をしているというところからスタートしました。
そして調査が進んで行くうちに、大統領から調査の中止命令が出るのです。
しかし、司法長官はそれにNOと言いました。
つまり、時の最高権力よりも、それまでの歴史とこれからの歴史、それを貫く倫理という物を優先したのです。
結果、すべての支持は大統領から出ていたという証拠が顕れました。
最高裁はそれを公開するよう大統領に指示を出しました。
それに対して拒否をしたまま、大統領は辞任、黙秘を行動で貫いたまま逃亡したのです。
つまり、これが王制と民主制の違いなのです。
これが出来るからアメリカは民主主義の武器庫、民主主義の警察だと言えた。
それを潰すことは、一過性の政権の維持より優先されることだったのです。
それに対して、日本の政治というのは遥か昔から単なる派閥争いにすぎません。
これは日本が神の手から人権を獲得した経験も、国のコンセプトを人間の権利と自由の確保に置いたこともないからです。
初めから、大勢の既得権益の保存のためだけに国体が惰性で存続されている。
だから思想の必要が無かったのです。
これは日本だけではありません。中国も同じです。
西洋のように、思想のために戦ってこなかった。
日本社会では哲学や思想を業務や政治に介入させれた「お前は何をいってんだ」「くだらないこと言ってないでさっさとやれ」「何がほんとは欲しいんだ?」としかなりません。
本当に心の底から人間が思想や哲学によって動くとは思われていないのです。
これは非常に偏ったことです。
ここまで読んでくださった皆さんにはお判りでしょうが、世界史の多くは思想で動いています。
宗教革命しかり公民権運動しかり。
試しに、世界における大きな事件を起こした組織を三つ上げてみろ、と誰かに言ってみればよろしい。
必ず、ナチスやタリバン、オスマン帝国やアルカイダなどの声がるでしょう。社会主義や共産主義団体の名前を上げる人もいるでしょう。
人によってはオウム真理教と言うかもしれない。
ほら。みんな思想団体でしょう。
純粋に生産性や効率性でそこまで大きなことが起きると思ってるのはおそらく日本の政治家だけでしょう。
これは頭が鉄血政策の時代から止まっているからです。
だから現職の政治活動家が「女は産む機械」とか「同性愛は生産性がない」などと言いだすのです。
彼らにとっては日本の政治において考えるべきは生産性であって、思想や哲学ではないのです。
これは、現状の日本の社会から見るに当然だと言えるかもしれません。
この国における、哲学や思想というものはその程度にしか思われていない。だから文系学部の縮小が始まるのです。
ヴィシー政権で味噌をつけた以後のフランスでは、大学に入るには哲学が必修なのだそうです。
それも日本のようなマークシートの三択ではなくて、半日ほど哲学的な問答をしなければならない。
工業をしたい人でも農業をしたい人でも、その哲学問答で「こいつは物を考える力が無いな」と判断されたら大学には入れないのです。
そのような環境で物の見方を学んできた人々と、ただ物事を数字に置き換えて数字の操作だけを考えてきた日本の大人とでは、知力に差が出て当然ではないでしょうか。
だから経験値なんてことを言いだしてしまうのです。
経験は数値に平たん化できるものではなく、生きて来たことそのものであって、単に数が多ければいいと言うような物ではない。
人の魂の在り方が経験そのものなので、それを数値化して測るなどと言うのは「女は産む機械」「同性愛は生産性がない」という思想とまったく変わらない。
それが日本です。
でもこれ、正直しょうがないのだと思います。
なぜなら、まだ戦後70年程度ですよ。
アメリカが開国以前から人権という物について考え、国を一つまるまる開拓し、世界情勢に何度も乗り出してまで答えを求めてきた歴史とくらべて、たったそれだけ。
だから日本社会が人間という物に目を向けた考え方と向き合ってゆくのはこれからということになるのでしょう。
階層のことを、カーストと言います。
これは古代インドから続く言葉だそうです。
このカーストに縛られた生き方から人間の魂が自由になる方法を求めて、お釈迦様は仏教を語られました。
我々はその後継としての視点から、このようなことを考えています。
どうかうちの活動がいくばくか、これからの日本の社会に住む人間の自由に還元されますよう。