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野狐禅

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 禅宗のお坊さんが書いた本を読みました。

 大変に面白く読ませていただきました。

 特に面白かったところのうちの一つは、禅というのが老荘思想の後裔であるということがわかったことです。

 佛教、すなわち中国仏教というのが道教、儒教の影響を受けて成立しているとは聞いていたのですが、少林寺のお坊様の話では「みんな同じものだ」という禅問答のような答えを読んだことがあるだけではっきりとした手ごたえが無かったのですが、今回の書見でだいぶ感覚がうかがえました。

 以前から繰り返している通り、我々の拳は思想の体現です。

 その思想が老荘であり、禅であるということの理解がいくらか自分なりに深まったように思います。

 またもう一つ面白いと思ったのが、この作者のお坊様が脳からのアプローチをしていたところです。

 正確に言うと、アメリカでの禅の解釈における脳のアプローチを肯定的にとらえていた、という意味なのですが。

 その説明の中を私なりにようやくしてみると、脳には悟りに関係する八つの習性があるそうです。それらをこの本での解釈を後ろに入れて、このように紹介されていました。

 1・全体視機能 一緒くたに見ちゃう 2・還元視機能  細部ばかり気にする 3・抽象機能 概念におぼれて具体を見ない 4・定量機能 数えたり計ったりして、もっと欲しがる 5・因果特定機能 ご褒美を期待しちゃう 6・二項対立判断機能 つい比べちゃう 7・実存認知機能 大げさに考えたり簡単にあきらめたりする 8・情緒価値判断機能 感情に捉われる。

 このような脳の働きが禅を通した結果、脳機能から悟りが得られる、というのがアメリカの研究者の論だそうです。こ

 このアメリカの論では、そのような脳の働きによる禅の悟りと、修道士などが得ることがある神との合一は別のものである、としています。

 この、後者のうちに、キリスト教以外での神などとの合一体験や、密教での神秘体験も含まれるそうです。

 さらに、禅宗でも曹洞宗と臨済宗ではまた違うと言います。

 少し自分の話をしますが、私もこの瞑想的神秘体験をしています。

 もっともこれは、神秘体験とは自分では認識していません。そこには神秘的な要素はまったくないからです。単に、脳がおかしな作用をしているのだと冷静に認識しています。

 自分なりの解釈では、これはスポーツで言うゾーンという奴だと思っています。

 昔、荒行で脳を酷使していた結果、脳内物質や脳波がおかしな状態になる回路が開かれたらしくて、一定の行為をするとそのような状態に入るのです。

 以前、私と同じようなタイプの人で、ボールがバウンドするのを何度か見るとそうなるという人の話を聞いたことがあります。

 散歩中などに子供がサッカーの練習をしているところなどをうっかり目で追ってしまうと、たちまち周りの時間がスローモーションになりはじめるそうです。

 このような状態はあくまで生理的な物であり、また、禅が個人の確立を趣旨としている以上、決して信仰心からのものではないと思っています。

 私の場合は、気功の結果、ある程度その状態に任意で至れるようになったのですが、それはあくまで肉体的な行の単なる結果にすぎません。それがえらいわけでもすごいわけでもない。

 その私の見解と同様のことを、禅のお坊様が著述してくれたのは安心の得られるものでした。

 すこし話が流れますが、これらのことを書いた章の後、本は野狐禅について述べていました。

 瞑想による三昧経験と野狐禅と言うと思いだすことがあります。

 それを語る前に、野狐禅について簡単に紹介しましょうか。

 昔、臨済宗の百丈和尚という方が説法をしていると、いつもそれを聞きに狐が来ていたそうです。

 なぜそのようなことをしていたかというと、実はこの狐は元はやはりこの山に居た僧だったのですが、雲水の一人に「悟りに至った人でも因果に落ちるのでしょうか」と質問され「不落因果(因果に落ちない)」と答えたところ、どうやらその因果のために狐に生まれ変わってしまい、以後五百回も、狐に生まれ変わっているのだというのです。

 そのため、正しい師匠につかずに自己流で勝手な修行をすることやそのような人のことを野狐禅という3ようになった、というお話です。

 私が、自分の気功の修行の結果、たまたま三昧に入ることが出来るようになったことを、ある友人が聴きつけました。

 この友人は、やはり武術の修行者で素晴らしい地力を持っていたのですが、性格的に難があり、師からその土台の活用のしかたを教授してもらえず、結果自己流の研究をしていました。

 そこまではやむを得ないのですが、自己流であることへの不安からか、他人や他流を知りもしないのに矮小化して見たてたり語ったりして自分を安心させようとするところや、他人の足を引っ張って自分をなだめようとはかる癖がありました。

 師に対する筋道や武林での立ち振る舞いにも極めて不誠実で、私も友のためだと思ってたびたび口うるさく注意していたのですが、その場ではすまながる物の、ほとぼりが覚めれば「うちはそんなにうるさくないから……」などと言い出したりして、どうも心には通じていなかったようです。すぐに元通り、自分をダメにするようなことばかりを繰り返していました。

 この友人が、その私の修行の進捗に対して「そんなのは魔境だ」などとまた足を引っ張ってきたことがありました。

 魔境というのは、自分が悟ったと思っていても、悟っていないという状態のことを言います。

 むろん、私は自分が悟ったなどとは思っておらず、ただ変化があったと言うだけのことなのですが、その友人は「それくらいは俺だってできる」などとまた卑屈なふるまいにいそしんでいました。

 結局、彼は師から破門されてしまいました。

 その後も、自分が悪かったなどとはあまり思っておらず、自己流の道をさまよっているようです。おそらく、五百度生まれ変わっても彼が真実にたどり着くことはないのでしょう。

彼は、特別に邪悪な人間や人の不幸を願う思想の持ち主ではありません。単純素朴な青年なのですが、なまじ武術の才があったばかりに道を踏み外してしまったのです。

 私が常に自己流はダメだというのは、自分が武術に求めているのが個の確立だからです。

 そのための行として行っているのに、自分を依頼心の強い甘ったれた人間に貶めるようなことばかりするのは、本質的に逆行だと言えると思います。

 友人も自分自身を天狗魔道の性癖があるとは語っていたのですが、どうしてもそんな自分をしっかりと見つめて立ち直る意思を維持できなかったようです。

 なまじ初歩の実力が高く、強い地力を持っていたために、やり直すことが出来なかったのでしょう。

 惜しい話です。

 私は十年やった古武術をすっぱり切り捨て、その後に六年やった回族武術も辞めました。

 それは、自分の立場やそこまでの執着を温存するためにしていたからではないからです。

 それが自分にとってよくないものだと思えば、ときに果断を下す必要もあるのだと思います。

 特に、日本の中国武術の世界は伝来の歴史上、内家拳がリードしており、禅の行であるという少林拳のスタンスが明確に認知されていません。

 ただの格闘技や現代武道の代替として知られていると思うのですが、それでは本来の少林武術の醍醐味は味わえないと思っています。

 自己の確立、それによる自由な命を生きることこそが私たちの武術の本来の目的です。

自分自身が確立できないまま他人の価値に振り回されるなら、野狐禅、魔境、天狗道という妄執の中でさまよい続けることになりかねません。


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