この作家について、中国人の記者が書いた文が非常に興味深い。
この人物は、文学が衰退に向かっている時代に文学の世界を守り、文学の神話を創り出している。音声と画像の情報が溢れるマルチメディア社会に文学の魅力を堅持し、人々が物質社会の輝きに酔いしれているとき、独り心の世界の宝を発掘し、みんながせわしなく前に向かって道を急いでいるとき、音もなく路傍に捨てられた記憶を拾っている。ときに私たちの気持ちを夕日が映える黄昏へ、灯りに照らしだされる小雨降る場へ、霧の立ち込める草原や森へと引き戻す……。
この文を読んだとき、私はそれが中国の伝統的な文化人の姿そのもののように思えました。
そして、それは私たち師父があるべき姿です。
彼のような生き方をする人々が人知れぬ森の中で剣を合わせて戦う相手の中に、オウムの事件を首謀した麻原受刑者のような存在があります。
彼は、麻原受刑者が孤独な人々を巻き込んで活用する物語の使い手であったと語っています。
人が孤独に十全に生きようとすることをそのように取り込んで自分の負の物語の中に取り込む存在。
そしてその物語に取り込まれて行ってしまうことで安心してしまう命。
そのことを思うと私は暗澹とした気持ちになります。
そのような負の構図を打ち払うために、自覚と言う物が必要だったのではないか。自分の人生を引き受けて自分で責任をもって十全に生きるためのメソッドが必要だったはずなのではないか。
麻原受刑者の手口というのが、そのような物を偽物にすり替える物であったことは想像に難くはありません。
偽物の自由、偽物の命。偽物の生き方。そういった物で自ら覚ることが出来ないように目をくらまし続けてゆく。
私はその手口の片側に、どうか自分をだまして自立しているように見せかけながら寄り掛からせてくれと望んでいる人々の欲求があるのではないかと思っていました。
その考え方はいまでもなくなったわけではありません。
しかし、その視点を少し変えてくれた物があります。
それが祭です。
つづく