先日、祭について書いた記事で取り上げた作家さんが、閉じた物語と開かれた物語について語っていました。
この場合の物語という言葉は、創作されたお話という意味では無くて、一連の連なった出来事のつじつまだと考えていただくのが良いかもしれません。
作家さんの語りの中では、オウム真理教の麻原受刑者がその信者たちに与えた物語が、閉じた物語です。
それらはもともと彼の元に行った人々が持っていた自分の人生への解釈に加えられて、それらの人生の物語を閉ざす形で吸収していったものであると考えてよいでしょう。
そうして外の世界に開かれることなく閉ざされて行った物語の中で、彼らは自己の内側に閉じこもり外界を断絶する生き方を選択して行った。死刑囚となった者たちはとくに、生命ごと自分の人生を閉ざす道を選んでいった。
私自身は隠者を標榜しており、世の中に隠れて生きている身を選びましたが、決して閉ざされた物語に籠ったとは思っていません。
ただ、世間という場所から受ける影響が可能な限り薄くなる場所まで距離を取り、必要なだけの取引をして自分の生き方をしてゆく道を選択したつもりです。
そうしながら、世界に向かう支度を蓄え、海を越えた歴史と真実に迫っては持ち帰ってきて、希望する人々には分け与えているのですから、むしろ世間の中に居ながらにしてただ埋没したルーティンの日々をこなしてゆくよりもずっと世界に対しては開かれたスタンスで暮らしを送っていると思っている部分があります。
この、ただ全方向に対して無制限に垂れ流しになって希釈されてゆくのではなく、上や深み、あるいはどこかの焦点などに向かって道を開いてゆくという選択は、私が出来うる限りでは上々の物であったと自分では思っています。
何分、武術と呼ばれる物を行う人々には閉ざされた物語に生きる人々が多い。
例えばある流派をやっていると言いながら、様々な流派をなまかじりしてゆき、それをしてまたその流派をやっているということにしている人をよく目にします。
他の流派をやるなら堂々とそれをやればいいし、やらないということにするならやらなければいいのに、違うものをやりながら特定の流派名だけを名乗る。
これは私には意味が分からない行為です。
その名乗っている流派が出来ないなら名乗らければいいのに。
そのようなブランド主義に囚われて意味の分からない行動をしている人は、私の眼には閉ざされた物語の中に身を沈めているように思えます。
また、それと似たパターンのように思えるのですが、私の所にも沢山意味の分からないことを言う人々が居ます。
練習のやり方が違うことをしてきすると「〇〇ではこうやるんです」などと言い出す人がいる。
それは〇〇をやっている時にやればいいことだし、私はその人に弟子入りして〇〇について教えてくれと頼んだ覚えもない。
そして、それを言ったことで練習が上手くなる効果があるとも思えない。
まったく何の意味もなく、ただ自分のエゴを慰撫するためだけに発言している。
さらに愚かな人となると、練習内容に対して「これは〇〇と同じですよ!」などとまた勝手に師匠になって教えてくれようとする。
このような人は非常に多く、私の先生も以前「私はあなたの弟子ではありません。教えてもらう必要はありません」と怒っていたことがありました。
そのようなことが大変に不真面目であるだけではなく、極めて無礼であるということも理解できないくらい、社会性が欠落している人は非常に多い。
それらの人々に共通して「自分」という物語への閉塞があるように思うのです。
その人にとっては唯一無二で世界一大切な可愛い自分なのでしょうが、他人にはそうではありません。
だからその人にとっては可愛い自分が知ってる大事な〇〇なのかもしれませんが、他人にとっては何の関係もない世の中に見渡す限りありふれた沢山の物の中の一つにすぎません。
そういった、パブリックな開かれた世界という広大な価値観の存在を理解できずに、自分だけを中心に世の中を見ていてそのことに違和感を感じもしない。
そしてその人が感じることを放棄した違和感は他の人がその人の人間性に対してたっぷりと感じていることになります。
私に言わせれば、お前ら全員苗字はギャラガーなの? というくらいバカ発言を垂れ流し続けながら生きています。
そして恐ろしいことに、私の前で何かを練習しているということは、その練習ぶりから見られる人間性や能力を基準に、どこまでの内容を託すべきか審査されてる状況であることは間違いないというのに。
そのようにして、立ち居振る舞い一つを行うまえに五秒考えてから実行することにさえすれば、世界や歴史の真実がより深く手渡されるはずの環境を不意にして、可愛い自分ちゃんのことを一生懸命垂れ流しっぱなしにする。
きっとすごくママに可愛がられてきたのでしょうが、私はママではないので非常に困惑します。
パブリックな他人とママの区別がつかないくらいに閉ざされた自分の世界の中で生きている人々。
それらの人々が求めているのは単にエキゾチックな物珍しい趣味であったり、他人が知らないことをやっているという第二次成長期的快楽の追求なのかもしれませんが、うちは本質的には開かれた物語への帰属を重視しており、自我という物をちっぽけな物だと見なし、より大きい世界の真実に向き合うことを大切にしています。
そのすれ違いは、なんというか非常にもったいないという気がしてなりません。