フィリピン武術と言われて一番イメージが浮かびやすいのが、両手に棒を持って振り回すあの動きではないでしょうか。
しかし、以前にも書いたとおり、あれは実はフィリピンではただの練習であってあれで戦う物ではありません。
アメリカで変形した「カリ」ではあれで戦うのだという考えもあるのだそうなのだけれども、本来はそうではないというのが一般的なフィリピンでの見解です。
あの動き、シナワリと呼ばれていて、初めて聞いたときはシナというくらいだから中国から渡ってきた技術なのかなと思ったりもしました。
だとしたら、中国武術とフィリピン武術のつながりを研究している日本で唯一の武術家としては重大なテーマになります。
しかし、どうやらあのシナワリ、もともとはパンパンガというフィリピンの遊びから来たのだと言われていました。
フィリピンという国は、ヨーヨーやバンブージャンプと言ったようなトリック系の遊びが盛んな風土なので、棒を打ち合わせる遊びがあったのだということなのでしょう。
遊びから来た棒に馴れるための練習法だから、武術ではないと言うことです。
ですが、不思議な話を聞いたことがあります。
フィリピン武術の怖い人たちの中でもダントツトップクラスのアントニオ・タタン・イラストリシモ先生が、パンパンガに挑戦されたことがあるという話です。
これはさすがにただの遊戯ではなくて、パンパンガは武術として行われていた可能性が見えてきたように思います。だってあの恐ろしいイラストリシモ先生だもの。名前を呼んだだけで首をはねるってエピソードの持ち主だもの。
そのパンパンガ、元はそれが出た土地の名前だと言います。
フィリピンでは、パナントゥカンにしてもシカランにしても、発生した土地の名前を武術の名前に付けることが多いようです。
イラストリシモ先生はもとはセブの出ですが、生涯を人を切っては蓄電するの繰り返して最後にマニラに落ち着くまでフィリピン中をさすらっていたという噂です。その途中でパンパンガ地方に寄った時におそらくは挑戦されたというお話でしょう。
試しに調べてみたところ、非常に面白い結果が出ました。
パンパンガとはなんと、ルソン島、現在のメトロマニラだと言うのです。
もともと、フィリピンはルソン島というのは、13世紀の南宋の時代に中国から渡ってきた人々が東都と名付けて国を作った場所です。
彼らはこの港町を東都を首都としてルソン島と呂宋国と称していました。
これが時に東都国となったりして、現在では我が修行先の地元であるトンドとなっています。名前は当時のまんまなのです。
昔からの中華街があり、中国武術がフィリピンに伝わった土地です。
でね。
このトンドはフィリピンが中国の一領土ではなくてフィリピン国となったころには、パンパンガ州の首都だったと言うのです。
なんということ!
私はすでにパンパンガに居たのでした!!
そのあと、南部が分割されてマニラという行政区分が出来て、残った北半分だけがいまもパンパンガ州と呼ばれているそうですが、この歴史から考えれば、武術としてのパンパンガが東都の港から伝わってきた、中国武術だとしても全然おかしくはないのです。
スペインの侵略以前は、ざっくり言うならフィリピンというのは北部は中国、南部はイスラムの土地でした。
そのために、北部のエスクリマには中国武術の影響が垣間見えて、南部の物はイスラム武術の影響があるともいわれています。
私たちのやっているラプンティ・アルニスが洪門武術から作られたように、パンパンガが双刀や双鞭の技術を土台としていた武術であっても、実は不思議はないのです。
なにせ実例がすでにある訳ですから。
こういうね、世界と歴史の現実と向き合う、開かれた生き方をしていることが私は好きです。