先日、刑務所の先生のお話を聴きました。
その先生は、初犯で懲役20年クラスの人専門の刑務所で、退所後の社会適応の講義をしている先生だそうです。
初犯ということは、常習的な犯罪によって生活を立てているような受刑者や、組織犯罪で身を立てている人ではありません。
そうなるとは思っていなかったのに、つい人を殺めてしまったり大きな罪を犯した人々です。
そのようにして犯罪を犯し、また20年近くも刑務所の中で人権を限定されて矯正をされていると、人間どうしても無気力になって、人の言うことをただ聞くだけの存在になってしまうのだと言うのです。
そのままで世の中に出ると、生きる気力を無くしてまた良からぬことになって再犯を犯しすようなことになりうるので、きちんと外界に適応できる人間に戻すための講義をしています。
そのために必要なのが、共感力なのだとその先生は説いていると言っていました。
まず最初に、なぜ彼らが懲役を受けることになったのかを理解させるところから始めるのだと言います。
切り口としては一言、危機管理に欠けていたからだとみるのだそうです。
確かに、元からいつ捕まってもおかしくないような違法行為を生業にしていた人々ではないので、突発的な一つの事件で人生がまったく誤ってしまった人々です。
あらかじめ危機管理をして、自分が罪を犯さないようにしていればそんなことは避けられたかもしれない。
これは、私が日ごろから言っている、人はみんな犯罪者にもなるし、発達障害があるかもしれないし、だれしも障碍者になりうるということと非常に共通するリアルな目線だと思いました。
その前提の上でこの先生は、では危機管理をするには何が必要だったのか、ということを説明します。
それは、共感する力だそうです。
もちろん、自分が被害を与えた相手や事件を起こしたことで迷惑を掛ける相手に対してこれが初めからあれば、確かにかなりのところまで事件は回避できる気がします。
うちで練習している人に多い、自分のことばかりで頭がいっぱいで練習相手の迷惑に意識が向かわずに棒でむちゃくちゃな攻撃を平気で加えるとっちゃんぼうやたちにはぜひ意識して欲しいところです。
しかしここまではまだ本当に重要なことに触れていません。この先生のお話に私が感心したところは、この後です。
この共感の対象には、まず自分が含まれる、というのが大切です。
自分が何をしたいのか、何をしたかったのか、それはどうしてなのか。そしてそれをするには、「具体的に」どうなのかということを細分化して明確に考えれば、事象は行く段階にも細かく目盛りが作られて、そのそれぞれのポイントのどこででも、選択肢を意識して最悪の結果は避けやすくなるはずだという考えです。
これが、私がここのところ書いている細分化と自覚に通じるお話だと思ったのです。
刑務所で20年近くも暮らしている人達というのは、毎日「なんであんなことになっちゃったんだろうなあ」「どうしてこんなことになってるんだろう」とばかり思っている人達です。
でも、ではそれを本当に細かく分析して理論的に見直してるかというとそうではありません。
そこがしっかりと出来ていないと、対策と反映が出来ない。
ただの無意味な後悔にとどめても、なんの役にも立ちはしないのではないでしょうか。
だから、自分自身にまずしっかりと共感して、自己分析をする。それが自覚と言う物ではないでしょうか。
そうはいってもすっかり後悔漬けになって無気力を刷り込まれた人たちをそこに持ってゆくのは難しいことなのでしょう。
この先生はそこでエクササイズとして「もし百万円あったらどうしたいですか?」と訊くというのです。
そうすると「バイクに乗って名物を食べに行きたい」などと言う話が出てくるのだと言います。
それが出ればしめたもので「ではどんなバイクに乗りたいの?」と訊いてみます。
そうすると「実は川崎の〇〇って言うのがあって、それがかっこいいんです」などと答えが出てきます。
「なんでそのバイクがいいの? いくらくらいするの?」と質問を繋げてゆくと「実は友達が乗ってて」とか「だいたい80万くらいです」とかのこたえがでます。
そうすると、80万なら遺りは20万だから、それで旅をしなければならない。旅の日程は何日になるのか、移動距離は一日どのくらいか、そうすると宿はいくらくらいに泊まれるのか。あるいはマンガ喫茶や野宿なのか。そういうことを一つづつ具体的に算出してゆくのだそうです。
そうしてゆくと「いや、上の道に乗ると早いけど海が見えないから、夕暮れ時にこっちの海岸線を走りたい」とか「毎回は食べ物にはお金を使えないから朝は毎日カップラーメンで我慢する」とかが出てきます。
カップラーメンでも、カレーヌードルはおいしいけど毎日だと飽きるからどん兵衛と交互にしようとか、そういうふうにして行くうちに、そこに何が好きでどういうことが苦手かという自分自身の姿が浮き彫りになってきます。
そうやって見えて来た物が、自分です。
それが自分に共感するということなのだそうなのです。
自分を知ると言うのは、このように非常に大切なことなのだと思います。
結局、外因ももちろん大きいのですけれども、多くの場合は自分の人生を詰まらなくしてるのはつまらない自分であるということがありうると思うのですよ
八割が外因だとしても、その八割が取っ払えるのだとしたら、取っ払って残りの二割で自分の本当に望む生き方に向かってゆくことは出来ると思うんですね。
そのために必要なのはそういう自分を理解する自覚であり、上に書いたような具体的な分析と計画だと思うのです。
私自身も明らかに最低の人生の最低の場所に居たからこそ、いまの自分があります。
その最低の中で、確かな物を求めて一つ一つ計画して我慢と潜伏を繰り返しながら、少しづつ進んできました。
私が伝えたいのは、そういうことなのですね。
いかにして自分の人生の苦境の中から、自分が要因である部分を割り出して、その自分が望んでいる物を具体的にしてゆくように目算を立てるか。
私はいまでも、世の中の多くを最低だと軽蔑していますし、まったくもって和解などしていない。
そして同時に、毎日を面白く幸せに暮らしています。
お金もないし愛情に満たされても居ないしイケメンでもないし名声も権力も無い。
でも、それらは私が毎日を自分が本当に望んだものと共に満足して生きる上で必要が無い物だったのですね。
本当の世界と向き合って、現実と共に生きてゆく、これは前に書いた開かれたと閉ざされたという表現で言うと、明らかに開かれた状態だと思います。
開かれた孤立です。
それがあるからこそ、私は現実と向き合えて幸せでいられる。
これは、現実の自分を直視し続けてきたからだと思うのです。
自分の現実を観ることを通して、世界の現実を観ることが出来る。
もし、開かれていない状態にとどまって、閉ざされた迷路の突き当りに向かってそこに自分の妄想を映して閉じこもっていたなら、その突き当りのどこにも繋がっていないところでの処世は出来たかもしれませんが、決して本当のことは見えなかったでしょう。
その突き当りでとどまっているうちに、いろいろな物が鬱屈してきて、以前に書いた「祭」というエネルギーの暴発が起きたかもしれない。
人為的にガス抜きとして行われている祭なら良いですが、突発的に起きた祭だったら、その行き止まりごと状況を破壊してしまうかもしれない。
上の受刑者たちの犯罪行為とはそういう物であったかもしれない。
もっと小さなもので、例えばストレスから万引きや露出行為、痴漢、飲酒運転での暴走、パワハラしたところからの告訴、あるいはつまらないインスタ写真など撮って炎上騒ぎをして人生を台無しにしてしまうようなタイプの祭も充分にあり得るでしょう。
そういったことを避けるための危機管理というのが、この自覚、そして世界を開くこと、すなわち現実と向き合うことなのではないでしょうか。
禅や少林武術というのは、本来そのような物として行われてきた伝統です。