アイデンティティとは、他人とは関係ないところにある自分自身の感覚であるかもしれないと言うことを書きました。
これは私たちの伝統的な東洋思想による物です。
人の心を精神と言いますが、タオにおいては精とは本能的な生殖のエネルギー、神とは心を意味します。
そして、心とは何かと認識能力だと言います。
すなわち、物をどう感じるかということです。
唐突ですが、私の周りには昔からバカが多い。
友達がみんなバカな奴らで、通称バカくんズと言うくらいバカな奴らが多くて、私はいつも、小さなことに囚われない、自分の価値観を持った気持ちのいい連中だと思ってきました。
そこで疑問に感じていたのが、なぜバカというのが悪いことだとされるかです。
バカいいじゃないか。
でも、その答えが分かったのがこの、認識能力こそが心であると言う伝統からの視点を知ってからです。
認識能力があった上で個性的なのは実はバカではないのです。
ただ、認識能力が低いのがバカです。
私は何を食べてもあまり微妙なことが分からずなんでもおいしいのですが、これなどは味覚の認識能力が低い。つまり舌バカというでしょう。
それと同じく、何を言っても通じない、視点を変えて考えるということが出来ない。自分自身にしか理解できない理由で勝手に悪意を持ったり怒ったりするという人、身の回りに居ませんか?
それがバカということでしょう。
物事を認識する能力が低いのです。
前の記事に書いたようなバカな犯罪者というのは、他人が作った価値観にへばりついて自分自身で物を感じる能力が大変に低い。
オリジナルの答えを見出せないから、勝手に追い詰められて、自分で自分を追い詰めて一人相撲の犯行に走る。
銃弾を発射するのか、不快な態度や醜い言葉を発するのかの違いです。これがバカということです。
じゃあバカダメだ。
自分自身の中にある、自然な自分の感性を見つけられた時、そこに自分の居場所のような物が見つけられるのではないでしょうか。
他人は関係ない。
自分が自分の中にいる場所を見つける。
東洋哲学においては、そのことが実はとても大切なことのように思います。
先日、渡航前の最後の練習を師父に付けてもらっていました。
いつもの夜の公園で、とても難しい練功を教わります。
あまりに難しすぎて、師父の横に並んで見ながら覚えようとしても微妙な部分がまったくつかめない。
ただ、上を向く動作をした時に星が二つ、並んで光っているのが良く見えました。
ひとしきり師父が動きを終えたあと、正直に話しました。
「すいません。まったく覚えられませんでした。ただ、途中で星が見えたのでそれだけ感じてました」
すると師父は笑って言いました。
「ははは。同じことを考えていた」
この時の私は、新しい形や知識を覚える生徒としては大変に劣等生です。
でも、形はダメでも、中では同じ方向を見ていた。
少なくとも、私が自分の生徒さんたちに求めるのはそういうことです。
伝統思想の感性を受け継ぐことで、自分自身の精神の自由を求める。