ポール・ウェイド著「プリズナー・トレーニング」を読んでジムに行かない間のトレーニングとしているのですが、これが結果、実は古代から伝わっているキャリステクニクス(自重トレーニング)と呼ばれる物だと知り、さらにその源流の中にいまタイまできて学んでいる仏僧の身体操法、ルーシーダットンが含まれているらしきことが分かってきました。
同様の技術が行われている気功、中国武術と言ったこの伝統の練功法を研究している身としては非常に面白い収穫です。
先日、私がこのプリズナー・トレーニングのメニューを行っているということを知った、いつもお世話をしてくれている先生に「老師も壁に手を着くところからやるんですか?」と訊かれました。
この本のメニューは、初めは本当に軽いところから行ってゆき、掲載されている六種目の運動をそれぞれ十段階に渡って進めてゆきます。
その一段階目がどれだけ軽いかというと、腕立て伏せなら壁に手を着いた壁立て伏せの10回1セットからです。
女性がやるような膝付き腕立て伏せは三段階目です。
しかも、各段階ごとに一週目、二週目、三週目目安くらいで三段階に分かれており、まったく補助のない普通の腕立て伏せに至るのは五段階目なので、実際は13段階目にまで行かないと腕立て伏せには至らない。
普段、165キロでベンチプレスをし、腕立て伏せなら指立てか四肢を折り曲げた豹拳で行う蔡李佛拳の物でしている私が、壁立て伏せからやりなおすのかどうかはきっと興味が向く点だったことでしょう。
おそらく、同じ身体能力があるほとんどの人が、八段階目の補助付き片手腕立て伏せ辺りから始めてみるのではないでしょうか。
しかし、私が理解している範囲では、それではかなりの割合で十段階目の完全な片手腕立ては出来るようにならないのです。
出来るようになったとしても、それはここで求められている身体の内側の腱や関節の強さによる物ではない。
結果としては出来ていますが、中で行われていることがまったく違うのです。
最初のスタート地点での段階から、内側をしっかり作って、自分の一番強いところでではなく、弱い部分で負荷をこなして実行できるようになってから次の段階に進むと言うことを繰り返していかないと、単純にどこかの段階で負担のかかっているところが損傷するか、単にチートでごまかしているだけということになってしまう。
それは内側の作り変えという練功の基礎概念に反します。
私はそのことを、師父から学びました。
初めのうち、師父はほとんど拳術を教えてくれなかった。
二時間の練習時間の内、一時間くらいはただ座って瞑想をしていました。
いつになったら武術を教えてくれるんだろうなあと思いながらも、私は座れと言われたら座り、立ってろと言われたら立っていました。
だからこそ結果、私の関節や血管は強くなり、武術を行った時に強い威力を出すことに耐えることが出来た。
陰陽思想に基づいて考えるまでもなく、これは作用反作用なので、土台となる身体の内側が出来ていないと、強い力が出せない。
なまじな力を出すと反作用を支えきれない身体の弱い部分が自爆して終わってしまう。
そのような仕組みの理屈を知っていた訳ではありません。すべては後から分かったことです。
物を学ぶのだからわからないのだけれどもとにかく相手の指導をすべて受け入れてやっていかないと分からないと思っていただけです。
多くの挫折者は、その視点を持っていない。
わかっていないのに、派手な技がやりたいんです、面白いのを教えてください、こんなのはやってられない、こんなことしてても練習にならないと勝手な素人判断を下して、大切な基礎をつくらない。
それでは本物は出来ない。
本物が出来る本物にはなれない。
よほど才能があるのなら別ですが、そうでなければ誠実さが無ければ、決して至ることはないと思われます。
自分にばかり関心を持っていないで、本当のことを知りたいと言う心で取り組むことが、なにがしかの道の奥に触れるためには必要なのではないでしょうか。
自分を捨てて、誠の道に寄り添ったときに、そこが未知の場所に繋がっているという物なのではないかと感じるところです。