ちょっと前の武術雑誌をいくつか読んだという記事をいくつか書きましたが、その中の一冊に、業界では知られているある有名な先生の記事がありました。
その人は昔からある大きな団体に所属している、実力派で知られている人でした。
その先生が中国で秘伝の高級套路を学んだときのことを話していたのですが、行くなりいきなりそんな高級な秘伝を教えてくれるのかと大変驚いたのだそうです。
しかし、その内容に関しては一切教えてくれない。
これは困ったと同門の師兄弟にこっそり聞いても「老先生がじきじきに教えているのに口は出せない」と誰も教えてもらえない。
結局そのまま「秘伝の套路を老先生から習った」と言う事実だけを持って帰ることになったそうです。
ここからがこの先生の立派なところです。
この実力派で知られる先生は「だから僕は、形だけは知っているけどその高級套路について中身は何も知らない」と正直に雑誌で言っているのです。
さらには「ぼくは日本から団体の代表として行ったからお客さんとして礼儀正しくお土産を持たせてくれただけだ。中身を教えなかったところに貫禄とすごみを感じる」と冷静に、そしておそらくは正しく分析していました。
なんという誠実さだろうと思いました。
そして、これこそが私がいままで学んできた、武術家というものの物の考え方です。
このような物の考え方が出来るかどうかが「できる」武術家か否かということだと思っています。
世の中には、この手の武術家のしたたかさにホイホイ踊らされて、秘伝をもらった自分は使い手だと都合よく解釈して周囲に喧伝してさも偉そうにふるまっている自称武術家が沢山目につきます。
さらにひどいケースになると、少しかじったことやメディアで観たことを自己流で教え出す先生がたも沢山いるようです。
正統な武術家というのは、伝統の継承者であるべきだという私の考えは、このようなところに由来する気がします。
すなわち、師がどのように自分を捉えて、どのように自分を導いてくれたのか、ということです。
師の意図をかみ砕き、推測し、意図を読んでこそ、師の継承者の自分が見えてくるものだと思っています。
そのようにして師の作品の一つとして活かされてこそ、武術という伝統芸術を満たした存在になれるのだと思っています。