このところ、すっかり日が昇るのが早くなりましたね。
私は大体、五時半になると自然に目が覚めます。
それから、果物を朝食にして、朝の練功をちょびっとして、仕事に入ります。
それが終わると、その日のメニューを少しこなします。
週に一回だけ、それはジムでのベンチプレスだったりします。
套路やサヤウは大体毎日少し。
あとは、キャリステニクスとルーシーダットンをその日の体調と相談して。
終わると、もう寝に入ってしまう。
私は21時にはもう寝る気まんまんで寝床に横たわっています。
テレビはほとんど観ないし、アルコールを飲みに行ったりギャンブルをしに行ったりもしない。
だから他の人より時間はあるはずなのだけど、それは睡眠に使ってしまうので、感覚として一日が終わるのが早いように思います。
そんなことをしていると、あっという間に一週間が過ぎます。
一週間の目安となっているのは、その間のクラスの運営になっていて、主に日曜日は大体練習日になっています。
「君は一体、いつ休んでるんだね?」と人に言われたことがありますが、曜日ではなくて夜の睡眠の時に休んでいるのでしょう。
だから週末もやたらに羽目をはずして遊びすぎたりもしない。
早く寝てスムースに新しい週に移行します。
そのような流れの繰り返しの中で、キャリステニクスは非常に面白い道標となっています。
毎週、出来ることが少し増えたり伸びたりしている。
自分の肉体が成長しているのが感じられます。
それは、私が少し、善いものになったことであるように感じられて、非常に充足した気持ちになります。それでまた早くから、長く、深く眠れる。そしてそのように眠ると心身は成長します。
すべてが虚しくて仕方なかった頃を十年ばかり過ごしていましたが、その頃は生きれば生きるほど自分がすり減って、悪くなっているといつも感じていました。
その中でこのような暮らし方の入り口を見つけて、少しづつ取り組んで行ったのですが、そうしていると自分が善いことをしているのだという感触を得られました。
それは、自分がしていることが、例えば身体や心に善いものであったり、人生のデザインにおいて善いものであったりするからでしょう。
仕事で大きなお金と影響力を動かし、暴飲暴食を享受し、権力と人脈を拡大する生活をしていると、大笑いをしてから元気を出して威張り腐っていても、まったく感じは得られない。
自分は必要なことを上手くやっているという感覚は得られていても、自分がしていることは単に功利の物であって、誰かとの競争に勝っているだけに過ぎないとしか思えない。
何かを上手くやり遂げたときに、心の中で聞こえていた声は「セーフ!」と言う物でした。
失敗をしなかった、という安心感のような物でした。
追いかけてくる何かに捕まらなかった、また今日も挫折して落ちてゆく人達の中に入らないで済んだ、というだけの、後ろめたさの見え隠れする安心感でした。
善いというのは、そういうことではないように思います。
何か確かなことをした。自分が行きたい方向に着実に少し進んだ。自分が成りたい物になっていっている。
そういうことが善いという感覚で私には感じられます。
それは、たまたま私が触れることが出来たのが、古くから仏教に伝わり、アジア文化に流れている、伝統的な価値観の根本の物であったからかもしれない。
だからこそ、私は大きく、深く、長く残ってきた力のある、善いという感覚に居られるようになったように思います。
ただの表層の成功ではなく、自分が何か、確かなところにあるという安心感がそこにはありました。
キャリステニクスや気功、ルーシーダットン、武術は、体操や健康法、スポーツであるとも言えますが、そうではない部分があります。
それが、文化的な善さという物として感じられます。
ライフスタイルであるということです。
自分がより善い方向に常に向かい続けているという確かさの中で、日々を送ることが出来ます。
曲がった骨格や、磨り減った腱、虚弱な筋力や荒れ果てた神経を整えて、内側の濁りを澄まし、ざわめきを静かにしてゆくことが出来る。
そしてそれそのものが生きがいとなります。
ライフスタイルそのものが自分の生きがいとしてあることは、大変に幸せであることのように感じています。
人は自分が幸せだと思えるライフを得るために生きるのが良いのではないでしょうか。