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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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バーサーカー・ボディ

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 気功やキャリステニクスによって身体を練るというのは、ウェイト・トレーニングで身体を作るのとは違います。

 どう違うかと言いますと、前者は本来身体の内側にある要素を引き出す物だからです。

 ウェイト・トレーニングを始めとしたいわゆる現代的なフィットネスというのは、まず先になりたいと思う身体のヴィジョンがありきで、そちらに向かうためにデザインしてゆく目的に用いられることが多い。

 気功などの練功は、もともとのその人の身体の中にある本能に回帰することをコンセプトとしています。

 この本能を元神といい、元神に還ることを還元と言います。

 こうなると、その人の遺伝子にある使っていなかった機能に身体が寄って行きます。

 そこには、当人の歴史に由来する肉体の記憶や、もしかしたら深層心理の反映もあるのかもしません。

 最近、私の身体はなんと、レスリング時代の物に戻ってきました。

 当時と比べて、体重は破格にアップしているし、膝をやってしまっているから往年の太ももの太さはありません。

 そういった違いはありますが、肩回りから上腕の、特に後ろ側の太さやそこから繋がる僧帽筋、首などはあきらかに往年の物。のっぺりした柱型の不思議なレスラー体形になりつつあります。

 決して当時のトレーニングをしている訳ではありません。

 これは恐らく、身体の記憶にある「これが自分の使える体型だ」という処に肉体が向かって行っているのでしょう。

 なんだかとても嬉しいことです。

 若いころにこういう身体をしていたから、別に首回りを鍛えても居ないのにそこに戻ろうとしている肉体の意思が感じられます。

 東洋武術で身体を作ってゆくというのは、こういうことです。

 人それぞれの違う個性を持った身体が、一番よく動けて自由に生きられる状態に向かってゆく。

 いろいろな器具やマシンで、本来の自分とは違う何かにむかって身体を作ってゆくのは、ある意味で大いなる歪みだと感じるところがあります。

 それこそが近代西洋の思想の繁栄そのものに感じられます。

 世界大戦に直結した出来事は、産業革命だと言われています。

 それは機械による大量生産が可能になったために、それまで仕事についていた個性のある職人さんたちが不必要になり、失業者が大量に発生したということが一つあります。

 もう一つは必要以上に安易に量産されてしまう物品をはかすためには、押し売りが出来る植民地が必要だったということです。

 この二つを同時に解決するために、失業者を兵士にして仕事を与えて、支配国を手に入れるための侵略戦争に出るという政策が流行しました。

 明治日本の脱亜入欧方針はまさしくそこに乗っかった物であり、近代国家としての日本と言うのはそのようなことをするために革命という手段によって作られた物です。 

 そのような国が富国強兵政策のために人間をつくる手段として制定された教育と、その一部である体育に、画一的な規格性があるのは当然のことです。

 鋳型にはめて作ったように、同じような人間を量産して国益に反映させる。それが体育として行われる西洋スポーツや現代武道の本質です。

 それに比べると、伝統の身体操法というのは、肉体の真実に還元することで社会制度から逸脱して自由を手に入れようという解脱思想で作られているので、ずいぶんとアナーキーな物です。

 しかし、これだけ世にあふれている人間の個人の身体性など、理解して肯定してくれる存在と言うのは、他にはないのではないでしょうか。

 そんなことにいちいち気を払っているよりも、画一的にみんなとおんなじような物にしてしまったほうが効率がよろしい。

 個人の個性など顧みる必要はない。

 自分自身の存在を探索し、それをあるがように伸ばしてゆくというのは、その個人その人の役割です。

 その行為を通して、人は自分の自我(エゴ)が知らなかった肉体の意思や性質という物を知ってゆくことになります。

 それが自分と向き合って、肉体という自分と外の世界を繋ぐ物を通して世界の真実に触れる一歩となってゆきます。


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