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ボクシング近代史 4

 さて、イギリス内でボクシングがバーリ・トゥードやプロレスを経て、ようやく現在の国際式ボクシングの形になってゆく過程を前回までは追いかけてきました。

 イギリス式の他に、フランス式もあったということも見えましたね。

 今回からは、そのイギリス式がいかにして国際式ボクシングとなったかを観て行きたいと思います。

 ここからが本番です。

 イギリス式が世界基準となる理由と言えば、まずまっさきに思いつくのが「太陽の帝国」と呼ばれた世界中に植民地を獲得したことが思い浮かべられます。

 英語が世界語となったのもこれが理由だと言って否定する人はまずおられないことでしょう。

 この辺りの過程は、昨年の秋にここでも書いた東南アジアの歴史で観てきましたので省きますが、要約すると産業革命で近世が訪れ、人がだぶついて物があまるようになると、彼らは資本主義の仕組みを広げることで豊かさを求めた訳です。

 つまり、労働力を外に広げ、搾取先の底辺を外部に求める。

 そのためにイギリス東インド会社がインドネシアやインドに派遣されます。

 この発想の先駆者は、オランダの東インド会社だったのでした。日本でも幕末まではオランダが外国の代表とされているのはそのためですね。

 また、大倭寇が起きるきっかけとなったポルトガルもこのころの活躍はすごかった。

 これで、ここまで武術史的に追いかけてきた明、清の時代と繋がってきましたね。

 この、西洋列強の進出により、フェンシングとボクシングも当然東洋世界に出て行くことになります。

 なにせ当時の西洋の商人や会社員と言えば後ろ暗いところのある冒険家や暴力家であります。もっと言うと要は海賊、ギャングの類ですので直接交戦は必須の物でした。

 この内、スペインによってフィリピンにもたらされたのが我々の行っているアーニス、すなわちエスクリマの原型であるエスグリマ、スペイン式フェンシングですね。

 では徒手の部門であるボクシングの方はどのようにしてアジアに伝播したのかといいますと、これが大変な難航の歴史となるのです。

 なにせ、アジアにはもともとカンフーがある。

 当時のアジアの盟主と言えば中国。

 そして彼らの方はカンフーによる武術が当然必須でした。

 武器ありの交戦となれば、火力に勝る西洋にも優位はあります。

 しかし、町場の殴り合いとなるとこれが大変なのです。

 一例を出すとしたら、グルカ戦争と言う物があります。

 これは、ネパール清戦争ともいわれる物です。

 グルカ、というのは西洋列強が傭兵として雇ったくらい勇猛果敢な戦闘民族です。

 彼等の用いる、物騒な大ナタのようなグルカ・ナイフはいまでも近接戦闘象徴のように見なされます。

 私の友人もいつもグルカ・ナイフの形のアクセサリーを付けていて、聴いたらネパールでは申告すればグルカ・ナイフを護身用に携帯することが出来て、喧嘩になったらすぐに抜くのだと言っていました。

 いまだに中世みたいなお話です。

 そのくらいの勇猛な彼らの本国がチベットに攻め込んだため、チベットの宗主国であった清は兵士を送り込み、これを撃退。さらにはネパールを支配下において勢力圏を広げてしまっているのです。

 のちのグダグダの清朝のイメージが強いのですが、いいときはこのくらいに強かった。

 その縄張りに踏み込んだ西洋人たちが、功夫とまともに戦ってそう無事に済むはずはありません。

 

                                                                           つづく


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