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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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ボクシングと近代史の話 5

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 以前書いた東南アジアの歴史シリーズの中に、タイのタークシンという狂王のことを書きました。

 彼は中華からやってきた人物で、ビルマの侵略を撃退し、彼らの攻撃によって滅びたアユタヤ王朝に代わるトンブリー王朝を興した人物です。

 アユタヤ王朝が滅びてタイ族の危機が訪れた時に、それを持ち直させて救った人物で、現在に至るまでのタイの礎を作った人です。

 そのため、現在でも紙幣に肖像が描かれています。

 しかし、晩年狂気を発して僧等にも権威をふるうようになり、それに反発した人々によって反乱を起こされ、最後には処刑されてしまいます。

 その反乱のリーダーだったのが、他国に取られていたラオス、カンボジアと言った周辺国を奪還して帰還したラーマ一世です。

 彼はその後王になり、チャクリー王朝を開きます。

 彼自身、アユタヤ王家の血を引いており、また母親は華人であったので、その資格は充分にあったと言えましょう。

 なぜ、ここでタイの歴史をおさらいしているのかというと、このラーマ一世こそが現代ムエタイの父とも言える人だからです。

 ことの起こりは、西洋からボクサーがやってきたことに始まります。

 西暦で言うと18世紀末のころとなりますので、すでに西洋人の手がアジアに伸びてきているころです。

 タークシン、ラーマ一世と二代続いてタイの王が中華系であったことから分かるように、このころのタイは中華帝国のワイルド・ウェストであり、彼等との折衝の最前線でもありました。

 しかし、このボクサーたちは直接の侵略者ではありません。

 興行試合をしに来たのです。

 タイ側では彼らのことをファラン(オランダ人)だと言いますが、オランダ東インド会社がアジアに先鞭をつけて以降、白人種のことはみなファランだと呼ばれるのでイギリス人であった可能性も高い。

 というのも、この時代でボクシングと言えばまさに、何でもありのブロートン・コードの時代だからです。

 それ以前のフェンシングやステッキ術を併用する武術では無い物の、ローブローと下半身へのタックル、倒れた相手への攻撃は禁じられていましたが、蹴り、目つぶし、投げそのものはありの総合格闘技でした。

 格闘技であるがゆえに興行を行うのです。

 要するに山師の類が地方興行をしにやってきたのです。

 王宮での試合となると、莫大な報酬が獲得できると踏んでラーマ一世を挑発し、家来の武術家との試合を申し込んだのです。

 それに対したのが、王宮の格闘技師範でした。

 ただこの人はタイ式相撲のレスラーであり、拳法の専門家ではなかったようです。

 というのも、当時のタイ拳法というのはカビーカボーンという総合武術の一部であり、格闘技では無かったのです。

 このカビーカボーン、以前にここでも少しだけ触れました。

 私がタイで修行をしているときに、そこの先生からこの武術の先生を紹介すると言ってもらったのです。

 その時はチネイザンとルーシーダットンの修行で時間が足りなかったので踏み切れなかったのですが、このカビーカボーン、兵器全般を使う武術で、特に看板兵器の双刀はフィリピン武術とのつながりがうかがえる実に興味深い物です。

 拳法は、両手に武器を持った上での合わせ技で、蹴りと肘打ちを主体としたものとして使われていたようです。

 この拳法を、現地の言葉で「肘の戦い」と呼んだりもするそうです。

 これ、恐らくは中華系の泰族から渡ってきた中国武術なのであろうと思われます。実際に、これらの調練で鍛えられた兵士を率いる猛将は中華系であった訳ですし、またチワン族の泰拳とも肘打の多様する姿がそっくりであるからです。

 さらに面白いのは、この武術で用いる刀が日本刀そっくりなことです。

 そしてこれと同様の物は、私のフィリピン武術のグランド・マスタルが用いていました。

 やはり、明らかに繋がっているように思われるのです。

 とはいえ、これ以前の大倭寇の時代までに、日本刀は世界中に売り出された人気商品でした。世界中の戦士たちが愛用していたので、どの人種が用いていてもおかしくないのですが。

 ただ、フィリピン武術に関しては、室町時代から日本人村がフィリピンにあり、そこで侍の武術が行われていたので、直接的なつながりがあってもおかしくはありません。

 カビーカボーンに関して言うならそれどころではありません。

 なにせ、アユタヤ王朝には、傭兵として日本の武士たちが務めていたからです。

 戦国の時代が終わって平和になり、職を失った日本武士が渡来していたのです。

 この模様は、トニー・ジャーの映画「マッハ」シリーズでも見ることができます。

 2と3はアユタヤ王朝時代の物語なのですが、何の説明もなく武士たちが沢山登場します。

 それだけ、タイの人たちにとっては日本人が歴史上うろちょろしているのは当たり前のことなのでしょうね。

 彼らサムライのことをタイでは訛って「サームレイ―」と呼んでいたそうなのですが、このサームレイ―の武器がタイ式にアレンジされた大刀がカビーカボーンのメイン兵器です。

 使い方も、中国や西洋の刀剣とは違って、日本式に切っ先で引き切るのだと教わりました。

 つまり、このタイの武術もまた、功夫と日本武術の混ざった海賊武術なのです。

 この武術では、手というのは武器を持ってる前提なので、パンチは行われなかったと言います。

 そのため、武器術の補助である拳法よりも組技の師範がボクサーとの試合に選ばれたようでした。

 この試合が、このころはまだ日陰の存在であったシャム拳法に現在の隆盛をもたらしたきっかけとなったようです。

 

 

                           つづく


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