さて、このラーマ一世の王宮に乗り込んで来た道場破り、タイ側の資料では「ムエファラン」の使い手だったとされています。
ファランとはフランクが訛ったタイ語で、白人全般を示す言葉です。決して花郎のことではありません。
ムエはムエタイ、ムエカッチューアー、ムエパン(プロレス)のムエで、戦いなどを現す言葉のようです。つまり、白人武術、くらいの意味の用です。
現在手元にある資料では、これが当時のボクシングであろうということです。
試合は当時東南アジアに来ていた白人たちにとっても良い見世物であったらしく観客が訪れて、タイと列強の公開遺恨試合の様相となったようです。
そして結果ですが、ムエファランとタイ式レスリングによる午前試合の結果は、乱入による乱闘となっています。
選手が追い込まれたと見たムエファラン側のセコンドによる乱入がきっかけであったとされており、そのまま雪崩式にタイ側の闘士たちも参戦、観戦に来ていたファランの観客らも巻き込んだ暴動となってうやむやに終わったらしいのです。
この手の後の呉陳比武もそうですが、面子が掛かった大一番はなんやかんやでうやむやになることが珍しくありません。
やはり興業の手際、はっきりと損する個人を出さずに収益を出すと言うのがやり手の仕事だったのではないでしょうか。
きっかけとなったファランの選手たちは国外追放ということになったようですが、これも生かして無事送り出したという風にも取れます。
昔、プロレスラーの前田日明選手がプロレスを辞めて格闘技路線に行った物の、明らかに中身はプロレスという興行をしていたときに「古武術にも演武がある」という発言をしましたが、この辺りの機微はずっとあったのでしょうね。
実際の、本物の流儀の使い手たちがことあれば戦争が起きてそれを用いるかもしれないという状況でそのような交流をしたということ自体がすごいという気はします。
ラーマ一世は特にこのことに強く気を引き締めたようでした。
得に、タイ側の選手が試合中にファランを殴ったところ、手の骨を折るといういわゆるボクサーズ・フラクチャーをしたことは重要視したようです。
私も経験がありますが、本当に手の甲の骨と言うのはパンチをするとぽっきりと折れやすい。
ショートパンチ一発で複雑骨折をしてしまい、いまでも人差し指の付け根はくの字に曲がってくっついています。
ラーマ一世は王宮に拳法研究所を作り、カビーカボーンの徒手部門であったパフユー(拳法)の追求を命じます。現代ムエタイが起きたのはここからです。
この曲がり角が無ければ、ムエタイは今でも肘と蹴りを重視したパンチの無い武術だったかもしれません。
家来たちはここで、ムエファランを研究します。
ボクシングは、この時はまだ総合格闘技でしたが、19世紀にはパンチだけの格技になるくらい、拳の技術を重視していました。
それをそのまま取り入れたため、現在のムエタイでもフックやアッパーを現すタイ語はなく、そのまま英語でフック、アッパーなどと言っているそうです。
さらに、この部署ではもう一つ重要な発明をします。
それが、カッチューアー、すなわち紐です。
前腕から紐を巻き付け、拳にこぶのような結び目を設けるやり方を発明することで、手の骨を守り、相手にダメージを与えるという戦い方を確立したのです。
彼らはこれをムエ・カッチューアー、すなわち紐拳法と呼びました。
イギリスのボクシングでグローブが普及する前に、彼らはすでにこれを実戦の武器として編み出していたのです。
このようにして確立されたムエタイは、タークシンとラーマ一世によって編纂されたインドの神話「ラーマヤーナ(彼らはこれをラーマキエンと呼んでタイ化したようです)」に登場するカラリパヤットをルーツであるとし、サームレイ―の日本武術、中国のカンフー、そしてイギリスのボクシングの要素を受けて完成しました。
このため、80年代ほどまではタイ人の認識ではムエタイというのはスポーツではなくて武術であり、ジムでは一人のクルー(師匠)が古式を中心として体系を保ち、試合に出る生徒にはその試合のルールに合わせて「次の試合ではタイ式」「今度の試合では国際式(イギリス式)」と技術を分解して教えていたようです。
実戦の拳法と試合用の技術、さらにその中でもムエタイとボクシングが完全に別の物に分かれたのは比較的近年であるようです。
つづく