我々の武術は代々革命運動に根差しています。
直接は太平天国の乱のおりに反乱兵士たちの調練用に編み出された物なのですが、それ以前にも少林寺の焼き討ちからの巻き返しの流れがあり、さらに言うと南方武術は鄭成功の海賊軍閥の土台を持っています。
この辺の流れは、多くの日本人、そして自称「武術家」にほとんど認知されていないのがもったいないくらい、アジア武術の歴史において重要な物です。
漢民族の王朝、明が滅びて騎馬民族の清朝になったときのお話です。
元々は、経費削減のために流通を縮小し、大量に職にあぶれた人たちが溢れたところで干ばつが起きて明で反乱活動が盛んになったとことがきっかけです。
反乱グループのリーダーたちの一人であった李自成は、勢力を付けてとうとう北京にまで攻め上ります。
そのまま首都を乗っ取ってしまい、新しい皇帝になりかわろうとしていたのですが、そこまでの勢力があれば良からぬ者も大量にまぎれこんでおりますし、その被害者も沢山出ています。
実際、反乱軍の通った後は略奪や殺人が横行していたといいます。
そのため李自成の軍に対して反感を抱く人も増えていました。
その一人が、元々明朝の軍人で、北方の万里の長城を守っていた呉三桂将軍です。
彼は北から騎馬民族が攻め入ってこないようここを守護していたのですが、その間に首都では親方である国が敗北してしまい、自分の家族も殺されてしまったことを知ると騎馬民族に降和し、彼らを手引きして北京へとけしかけるのです。
これにより、危険な騎馬民族が堰を切って中原になだれ込み、そのまま乗っ取って清朝を形成してしまいます。
この活動に抵抗をしていたのが、海賊であった鄭成功です。
彼は福建省出身の海賊である父親と、日本の平戸の商人の娘との間に生まれた、半分日本人である英雄です。
そのため「国姓爺合戦」という物語の主人公として日本では知られています。
ちなみに、作品中での名前は和藤内。和でもトウ(唐)でもないということであるようです。
この国姓爺、海上の貿易と闘争を掌握していた海賊王子であり、騎馬戦を専門とする馬賊たちをバシバシ倒してゆきます。
その拠点として台湾を開拓するのですが、その折に例の列強の侵略によって台湾を侵略していたオランダ(フランキ)を倒して台土を漢民族の物としたため、現地では国民的英雄とされています。
この、漢と日本の血を引く海賊が、アジアの海域の一大英雄であり、台湾に中国武術を根付かせた人なのです。
そこで調練を積んだ海賊兵士たちは中原に攻め返して国土を取り返しかけるのですが、そこで騎馬民族たちは沿岸数キロにわたって人が住むことを禁じるという奇策を行います。
これによって、水上での補給も攻撃も出来なくなった海賊衆は最終的には敗北してしまいます。
その後、清の時代はラストエンペラーの時代、日本軍が満州に侵攻するまで続きます。
つづく