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あるマジな武術家の生 正

 海賊王子、鄭成功の敗北により、清朝は確立され、1600年代から1912年の20世紀にまで続くことになるのですが、その清朝末に譚嗣同という人が生まれました。

 清朝の役人の家に生まれたいわばボンボンです。

 役人の家に生まれたボンの常として、彼も勉学に励んで科挙を目指すのですが、どうしたことか学べば学ぶほど儒教、朱子学が嫌いになってゆきます。

 結果、老荘思想に目覚めてしまい、果ては各地を遊行して武術を学ぶ武侠になってしまいました。

 彼の師となるのは、大刀王五という中華史に名を残す名人です。

 王老師の更に師匠となるのは双刀李鳳岡と呼ばれた鏢局の大師で、王老師もそこで鏢師をしながら武術を磨いていました。

 鏢師と言えば、武術の力とネットワークを通じて各地を旅して荷物を守る職業です。

 譚嗣同青年もそのルートを通じて各地を旅し、義侠のふるまいをしていたとされています。

 しかし、そこはただの放蕩息子ではありません。科挙を目指していたインテリ性が、各地の人々の悲惨な有様を目にして反応しました。

 これは世の中を変えなければいけないと彼は決意します。

 そんな中、彼が30の時に日清戦争で中国は敗退。このままでようよう清は他国に支配されると思った彼は、政経学で国を立て直す革命を志します。

 彼はこの武林のネットワークを通じてさらに学問を身に着け、さらには仏教にも帰依してゆきます。

 最終的にはこの国を儒教的な支配で私していた西太后を除くことこそが革命になると考えた彼は、軍部を握っていた「ストロングマン」こと袁世凱と皇位を握っていた光緒帝に通じてクーデターを起こします。

 しかし、歴史的裏切り者野郎である袁世凱が土壇場でまた裏切り、クーデターは失敗、光緒帝ともども譚嗣同ら革命軍の幹部は囚われてしまいます。

 ここで、大刀王五ら武林の侠士たちが暗躍して囚われた彼らを救出にあたります。

 結果、彼らの多くは日本への亡命を図るのですが、譚嗣同は元々、日本ら外国の支配から国を守るために革命を志したので、清朝の敵だからと日本軍につく気はありませんでした。

「死して革命の礎となる」として逃亡を拒否、処刑されてその生を終えます。

 私が言う、興業武術家ではない、人類史や文化と共にある武術家とは、このような人のことです。

 武術はただの変わった趣味でも、人にひけらかすためのごっこ遊びでも、自己愛を満足させるための自慰行為でもなく、人としての生き方の中核を支えるだけの力のある物です。

 私たちが学んでいるのは、そのような学問なのです。


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