うちも、練習の予定を出すのでツイッターをやっているのですが、そうすると何か知らない人のつぶやきを勝手に目にしてしまうことがありいます。
先ほど見たのは「敷居を挙げて門下生を増やしてないところは武術、武道としてもあかん」という内容の物。
あぁ、本当にこういうことが言えてしまう人がいるのだなあと驚きました。
甲本ヒロトが「売れてる物が旨い物なんだったら、世の中で一番うまいのはカップヌードルだ」ということを言っていましたが、本当にこういう、ジャンク・フードが一番良いのだ、と言えてしまう人、もっと言うとジャンク・フードじゃないものはダメだと言えてしまう人が存在する。
私もジャンク・フードに関しては繰り返したとえに出してきました。
自分自身もジャンク・フードは食べるしそれが簡便で良いと思うけれども、本物の料理だと思ってはいけないと。
本物の伝統武術と、簡便に楽しめる物とはまったく無関係だ。
その分別を、こうしてがさつに踏み荒らせるのは常に数の論理を振りかざせる人だという定番の流れを、まさに目の当たりにしました。
なぜ、人口が少ない物は武術、武道としてダメなのかの理由がまったく想像できない。
そういう物が武力であり、数の暴力を持っていた方が強いからということでしょうか?
いやはや。
こういう人が居るから、私は先人たちがそうしたように、伝授する内容や人間を絞るのです。
やたらな人に無暗に普及させて質が維持できるとはとても思えない。
こういう、数の暴力の論理で平気で行動出来てしまう人がいるからこそ、戦争も宗教弾圧も人種差別もマイノリティへの冷遇も、普遍的に人類の習性として行われてきたのでしょう。
それはある意味でしょうがない。
無意識レベルで誰でもがしてしまうことだと思います。
だからこそ、私が先人たちから受け継いでいるような、ゲリラ戦の武術や、革命兵士の武術が発達してきたのでしょう。
そして、群れの論理を離れて個の確立を説く仏教の哲学も。
一貫して同じことを繰り返し続けますが、そのために我々の武術はある。
群れの論理から離れて、自分の頭で考えて自分の言葉で語り、自分の人生を生きるための武術です。
ここのところ、大衆に迎合した売芸武術家について書く記事が続いていましたが、まさにこういう、大衆の力を持ってあらゆる哲学も芸術も大衆化させてしまおうという力があるからこそ、それに迷わないために武術という物を生き方に用いてきた人たちが居ました。
私たちが継承して学び続けてるのはそこなのです。
安易に流れて物を考えないで楽になろうとするような群れになるべきではない。