教習興行で暮らしを立てている、売芸武術家の言うことなどは、商売で言ってるだけなのだからあまり目くじらを立てるべきではないのかもしれません。
この手の商売人がその場だけの調子のいいことを吹聴しても、昔の人は「商売商売」と言って手をひらひら振って真に受けは居ていなかった記憶があります。
松本人志が、社会適応が上手く行かずに犯罪を犯してしまった人のことを「必ず不良品が出る」と言っていましたが、元々社会にはそのような、順当な手段ではうまくやってゆくことが難しい人間と言うのが必ず存在して(もちろん私もそうですし、恐らく松本氏本人も自分も含めた立場からの発言でしょう)いて、そういった人の受け皿というのが存在していました
プロレスの世界もそうですし、暴力団もそう。
角界もそうだし、芸人なんていうのはそういう子供が売られるぞと脅かされるところでした。
関西育ちの私などは、恐らくは多動性障害児であっただろう子供の頃によく「ふざけてばっかいると吉本売られるぞ」と言われて育ちました。
うちの爺さんたちの世代だとサーカスに売られると言われていたそうで、モーニング娘。がテレビに出ていて小さい女の子たちが歌っているのを見ると「不憫だ」と混同していたくらいです。
それが、いつの間にか大衆が芸人や興行の世界の演出を真に受けて憧れるような世の中になっています。
「商売商売」
テレビの中のイメージの世界はあくまで演出で、実際はそのような物ではないということは、何人もの芸能人が借金を抱えて犯罪に至ったり、不正薬物の使用で逮捕されたりしているのを見れば察しがつきそうなものですが、現代人の多くは商売で作られたイメージが現実には存在しない商品であるということを今一つ理解することはないようです。
虚構と現実の区別がつかなくなっている人があまりにも増えているように感じます。
これは、恐らくは現代人の多くが現実の体感を持った生活をしていないことに由来するのではないでしょうか。
自分の手で何かを作り、その作った分と繋がった物を口にして暮らし、その口にしたものと暮らし方が肉体を作ると言う生命の初歩の仕組みを感じていないように思えます。
なんだかよくわからないけどとりあえず生きてるし分からないまま広告されているイメージを模倣していたらそれでもなんとなく生きているからそのままなぞってゆく、というような生き方がとても多いのではないでしょうか。
そのような人が、自分自身の実態をつかめないまま、偽装して発信された情報を模倣して自分自身のことも偽装してゆく。
そんな命のありようは、おそらく人類の歴史以来初めてのことでしょう。
先日、大学の先生のお話を聴いたのですが、彼女は理数系の研究者で、数学を用いて浮世絵の解析を目指していたというのですね。
というのも、美人画とされるそれらの絵画が、彼女にはみんな同じ顔にしか見えない。
そこで数学を用いて計測して行ったそうです。
結果、まったく同じ比率の範囲の物だったと言います。
彼女は美人とされていたものがなんだかわからないまま途方にくれたそうです。
その後、彼女は友人たちの間で流行っていたギャルメイクに関心を持ちます。
今度はそのメイクを数学的に計測することで、より多くのケースに接して美の概念に触れることが出来るのではないかと考えたのだというのです。非常に面白い切り替えです。
そのリサーチの最中、彼女はインタビューしているギャルたちから、なぜギャルメイクにするのかというモチベーションに関して驚くべき言葉を聞くことになります。
それは「個性を出したいから」という物でした。
もちろん、彼女は私たちと同じ感想を持つことになります。
すなわち「みんな同じ顔になるのに!」
調査を進めてゆくうちに、彼女たちのメイクと同じ構造が、現在のSNSでなぜ女の子たちが一様にタピオカを映すのか、という疑問に通ずることを見出してゆきます。
それはすなわち、内側への発信という物でした。
外部から見れば同じ物でも、同じ物の中でならべると差異が現れてきます。
彼女たちの発信は初めから、外部ではなくて内部にのみ向けて行われていたというのです。
この話を聞いて私が思い出したのは、ナチや紅衣兵です。
同じ格好をして、同じ言葉で話すことで特権意識をねつ造し、そこに所属する欲求を満たすことでありのままの自分から目をそらして生きてゆけるという行為。
この凡庸さ。
自己愛から始まって、結局自己を立て損なう。
これは私たちが求めていることとは真逆です。
私たち仏教武術の世界では、個性は必要ない。
ただ、決まった経典を読むように拳を打ち、周りの景色と一体になるように瞑想をします。
自我というものをどんどん消してゆく。
そのようにして、周りと調和して自己が消えて行ったときに、それでも残っている物、言い方を変えればはみ出したモノが、個と言われる。
だから我々は、自我を消して自己を確立する。
もし本当に個性を求めたいなら、伝統武術とは言わないまでも、しっかり身体と向き合い、身体がありたい姿に向かうように鍛えてゆくのがよい。
同じように鍛えていっても、一人一人肉体には違いが出ます。
そしてその肉体がそれぞれ違った姿でもっとも高く能力を発揮できるようになったとき、自分と言うのはこのような生命であったということが初めて感じられます。
そしてそのようにして自分の肉体が発揮したい力を活かして生きるとき、とても大きな個としての自由を感じることが出来るのではないでしょうか。
その時に送っているのは、他の誰にも出来ない、自分だけの、自分の生き方です。