毎日が、雨を耐え忍んでいるうちに過ぎてゆきます。
メッセンジャーの仕事をしているので日がな一日、野外に身をさらしているのですが、雨の中に居ると非常に体力を消耗します。
そうすると、帰宅後は疲れてしまって数時間で眠りに就くことになります。
そして早寝早起きが加速する。
去年の今頃は、猛暑で毎日熱中症になっていました。
ヘルメットをかぶっているとはいえ、日影がない露天にずっといるとそうなります。
ちょうど血栓が出来ていて死にかけていたので、熱によって血液の濃度が増すのはより死亡率を挙げる行為でした。
それでも毎日、空の下を走り続けて暮らしていました。
どうも私には、そのように自然の流れを感じながら過ごすことが必要であるようなのです。
雨が降れば濡れ、日に焼かれれば頭痛に倒れ、寒さには凍える日々を送っていることで、大きな命の流れと自分が繋がっていることが必然的に日々感じられます。
オフィスに籠ってデスクに向かっている暮らしでは、私の功は成り立たなかったことでしょう。
連休などでしばらくこのサイクルを離れるといささか落ち着きが悪くなります。
天道の下で働き、疲れ、瞑想をして慰撫されるということが私をもっともなんというか、据わった状態に置いてくれます。
この様な暮らしをしている上に、私はとても疲れやすい。
最近は雨を忍んでいるうちに日々が早々と過ぎ去ってゆきます。
梅雨が明ければまた酷暑にあえぐことになるのでしょうが、夏を惜しむ気持ちがやはりあります。
足早な暦の中で、私が一日毎出来ることは非常に僅かです。
その僅かさが積み重なって、先日はコンヴィクト・コンディショニングのステップを先に進めることが許される状態になりました。
今回の課題はハーフ・プルアップです。
小雨が収まった隙間を突いてこれに臨んだときに至れたのは、驚くべき世界でした。
これまでとはまったく別の、新しい次元がありました。
いまから数十年前、いたずらにジムで何回懸垂が出来るかを図ってみたことがあります。
回数はもう覚えていませんが、スポーツ・テストでは最上位の基準には至っていました。
しかし、それは思い切りあふりを付けた、数字上の既成事実を残すためだけのものです。
じっくりと体内に力の流れを作ってきた上で、それを使っての懸垂は違いました。
指先から、身体の中を力が繋がって通ってゆくのが明確に感じられます。
自分の体内にそのような大きな圧が存在していたなんて、やってみるまでは知りませんでした。
そういった、自我とは無関係な自然の仕組みの働きが感じられました。
これを、昔の言葉では気と言いました。
現在の言葉で言うと「力」というのが適切でしょう。
教えに則って生きているうちに、それは私の中でいつの間にか大きくなっていました。
空。地面。樹木。水。無機物。あらゆるところに力は働いています。
練功とはこの、力を感じる感性で世界を捉えるようにしてゆくことです。
力の種類、方向を無意識に感じられるようにしてゆく。
そうすると、力と自分とが繋がります。
ベクトルは融合するからです。
武術の稽古で、人と散手をするときも、初学の人はどうしても人を見てしまう。
相手という人間、自分という人間。
その観点から生まれる勝敗の概念や競争心、見栄やごまかしという不純物を、排することから本当のことが始まります。
人という形状の中に働いている力の流れ。それがすべてです。
それを感じ、自分の中の流れとの合わせ方を体感してゆく。
それがすべてです。
そうすることで、エゴが薄れて自分自身が世界そのものと融合してゆく。
その中で、意で気を導き、気で勁を導くということをしてゆく。
フェイントも駆け引きも無い。
現代武道的な段位評価はしませんが、私はそれぞれの生徒さんを見て必要な物を知ろうとしています。
もしその行いを現代武道的な審査会にするとしたら、相手と面して気合の掛け声をかけるような人は全員失格とするでしょう。
そういうことではない。
そういう物は必要ない。
必要なのは、ただ粛々と、その場に働いている力を感じることです。
自分のエゴも、他者のエゴも関係ない、力の働きの営みに身を置きます。
その結果としてある天人合一。無為自然。
求めるところはそこでしかない。