この間、ある役者の人が「芝居が生きている」ということについて話していました。
私は演劇のことは完全に不調法で、何がすごいやらなんやら聴いていてもわからないのですけれども、私の好きなタレントさんが演劇経験からそれに対して注釈をつけてくれました。
素人がお芝居をするときは、シナリオを覚えてそれをなぞってしまう。
全体の流れを知って演劇をしているから、水を飲むときに次のセリフに備えて口に入れたら急いで飲み干すし、そのタイミングで他の俳優が話すのを知ってしまっているから、無意識がそれを待ってしまう。
これが、なぞる芝居。
でも、生きている芝居はそこに本当に生きている人として出来るということのようなのです。
水を喉に引っ掛けながら何か言おうとすることで唐突に何かを言われた人の状態になれたりする、ということのようでした。
この、ルーティンをなぞるのではない、ということは武術をする上で考えさせられることがありました。
套路をするときも、出来てない人はただ順番をなぞろうとする。
そういうことでは練功にはなりません。
誤解を招きそうですが、順番は二の次。
まずは中身です。
それがあった上で、中身を維持したままやるのが難しい動作を繋げて中身を練ってゆく。
これをごまかしてただ上辺だけなぞっているうちは、それは生きた武術にはなっていません。
外見、形骸だけです。
外見をなぞっていればいずれ中身が洗練される、というのは儒教の考え方、形式主義で日本人が大好きな方法論なのですが、そこを切り替えないと中国武術は難しいところがあります。
ただ怖いのは、中国では三教と言って、儒教、仏教、道教が並行して尊重されているので、教える気がない生徒にはこの孔子様の教えを守らせるところです。
これが日本人にはまってしまうと……。
私はちゃんと教える師父なので、ちゃんと出来るようにまではお伝えしています。
学生さんたちも、生きた武術をしてほしいところです。