私が子供の頃はいまよりも沢山カンフー映画が公開されていたから、それ以外の特撮物やマンガでも、修行や師匠みたいな武術要素が溢れていました。
テレビ放送でジャッキー・チェンの映画が観られたら大喜び。ブルース・リーが流れたら大当たり。ショウブラ映画だと見ちゃうんだけど理解できなくて首をひねったままラストの縦長に映る「終劇」を見送るという次第でした。
けれども、それらを見ても自分がやろうという風には思いませんでした。
初めてやろうと思ったのは「ベスト・キッド」を観たからです。
あれは非常に変な映画です。
元々、ロッキーを作ったスタッフが制作したもので、いわば少年版のロッキー的な映画です。
ロッキーと言うのはもうあまりにもビッグネームすぎて忘れられがちですが、そもそもが娯楽アクションではなくてしっかりとしたアメリカン・ニューシネマです。
そのためか、ベスト・キッドは空手を全米に広めた映画でありながら、最初から最後まで、暴力を否定しています。
試合をしているのに試合も否定します。
空手のもっとも大きなパフォーマンスである、試割も否定しています。
え、じゃあ何を描くの? という感じですが、そこで描くのは「人が育つ」ということです。
この映画のシンボルとなっているのは、拳でも黒帯でもなく、盆栽です。
人がそれぞれの資質を伸ばして成長するという姿を、盆栽に象徴させて描いているのです。(この要素が欠けてしまっているのがリメイク版の弱点でした)ひたすら盆栽に拘ります。
この、師匠が弟子を育成する、ということの大切さを描いたシーンは、一作目の段階で撮影はされていたのですが、カットされてしまっていて三作目の冒頭でようやく公開されました。
それは、師匠同士の対決シーンです。
いえ、実際には、その勝敗はさほど問題ではありません。
その直前にある、主人公のライバルとその悪の師匠との決裂のシーンです。
主人公に敗北したライバルを恫喝する悪の師匠に対して、ライバルの少年は「あんた病気だよ!!」と言い返すのです。
主人公達師弟がいかに正しい心を大切にしてきたか、ということを受けた対比のシーンがこれです。
その正しい心の在り方が、本編ではひたすら描かれます。
それを見て私は、自分も空手をやりたいと思ったのでした。
なぜそこが響いたのかというなら、自分自身関西のワルガキであり、喧嘩ばかりしてきたからです。
喧嘩好きでもないし興味もないのですが、コンプレックスにまみれたまだ人格形成がされていない子供たちが喧嘩を売ってくるので、我慢が限界に達しては病院送りということを繰り返していました。
普通はそこまでしない、と大人たちには毎回怒られて、同年代の間では「狂犬病」というあだ名が付けられていたのですが、こちらに言わせればそもそも何もしていない相手に喧嘩を売ってきたり嫌がらせをしてきたりしているのですから、普通はどこまでやるも何もない。二度と出来ないまでにしようという動機しか喧嘩の理由がないのだから仕方がありません。
昔所属していた道場での同門に「あなたみたいに元々強い人にはぼくの気持ちなんてわからないんだ!」と言われたことがありますが、ただで自分の都合を他人に斟酌してもらえると思えるのが弱さなのでしょうから、そりゃあ分かりません。
たぶん、強いというのはそういう甘さとの距離が離れているということなのではないでしょうか。
そのような私にとっては、ベスト・キッドで描かれていた、曲がりくねりを含めて如何にして自らを制御してゆくかというのはとても心惹かれるテーマでした。
人間を弱い状態にしたままコンプレックスを助長させてゆくような武術には興味が無く、ひたすら哲学を求める武術だけにいまだに取り組んでいるのはそれが理由であるように思います。