ここまで長々と、暴力というベクトル上において世の中がいかに構成されて、そしてその同じ力が余熱も冷めないままにいまでも働き続けてきているかを書いてまいりました。
中国の伝統武術というのは良く出来た物で、その部分にしっかりと向き合い、そこから如何に解脱するかということをテーマにしています。
少なくとも正道の少林拳とはそのような物です。
暴力に対するコンプレックスという人類社会の根幹にある物に対しての視線の向け方という意味で、非常に洗練されていると思います。
ただの見世物、売拳になるのとは違う手段を取り、人の生き方を身体を通して導いてゆく。
他人と較べたり競ったりする必要はありません。というかむしろしないようにすることが練習です。
勝ち負けを求める心からも離れてゆくように努めます。
どうしても、うちに来る人も最初は人の知らない珍しい武術、優れた戦闘法を知りたいという人が多い。
しかし、戦う、勝つ、ということ自体から離れるように進んでゆくことが大切です。
そこに囚われているうちは、多少喧嘩が強くなったところで本質的には同じ次元にとどまっています。
そうではない。
生きるだけ生きて力及ばず死ぬるときが来たらただ死にたもうなり、という執着からの解脱がこの仏教武術の本質的な目的地です。
それは東洋的なニヒリズムであったり、もっというなら狂ったアジア人戦士の野蛮な精神性かもしれません。
しかし、その心が出来た時、怖れ、惑い、疑い、驚きという、心の中の強敵に敗れることはなくなるかもしれません。
さらに言うなら、自分自身と言う永遠に逃れられない敵に勝ることが出来るかもしれない。
これは恐らく、現代社会で多く求められている武術像とは違うかもしれません。
ある「武術の最高奥義」「極意」と自称している流派の先生が曰くには、その流の技は人心に働きかけて倒す物で、物理的な力ではなく動物にも効かないというのです。
そういった、他人に絶対に勝てる方法のような物を多くの人は求めているかもしれません。
しかしそれは私たちの物とは全く違う。
私たちは物理的な力を高め、動物とも戦う技法を通して、自分自身の心と向き合うことを是としています。
人の心の弱みに付け込んでだまくらかして勝ちを掠め取るようなことはまったくしません。
喧嘩で強くなりたいと中国武術を始め、長い修行をしてからうちに来てくれた人がいます。
初めはうちの勁に興味を持ち、熱心に練習をしてくれていたのですが、そのうちに武術の文化の方に興味を持つようになってくれたと言います。
もし、勝ち負けのような物を付けるとしたら、そういうことが私にとっての勝利です。
暴力から始まり、暴力へのカウンターから生まれた社会という拘束の抑圧から自由になり、他者との比較ではない自分を確立して、自分が本当にしたいことを生きて楽に至る。
そういう物が、武術という芸術、学問であると私は認識しています。
古伝の套路を独り日々打って、そこから先師たちが隠した意味に触れられた時、私は時代や地理をも超えて見識を広めることが出来ます。
それはこの肉体の内で血肉となり、自分自身の生き方を直接換えてゆきます。
私にはとても幸せなことであると感じられます。