いま、改めて白石一郎先生の「海狼伝」シリーズを読み返しています。
最初に読んだのがもう20年ほど前になるでしょうか。
時代小説に明るい友人に、私に似たのが出てくるから読んでみろと勧められたのでした。
その私に似たのと言うのは、主人公ではありません。
このお話は、倭寇侍の落とし胤である少年が、朝鮮で海賊将軍をしていた叔父が帰国したのをきっかけに、自らも一人前の海賊になって最終的にはタイに乗り出す、という物語です。
時代的には大倭寇の後の時代で、明国の沿岸に百万の軍が配備されて海賊たちと一大戦線を繰り広げていたということは、主人公ら若者にはもう信じられなくなっています。
この辺りの流れに関しては、よろしければ過去記事をご覧になってください。
そこで行われた各国の一大連合によって、武術の混交と発展が行われた経緯を書いたことがあります。
その末裔が、現在私たちが練習している蔡李佛拳やラプンティ・アルニスとなります。
私に似た男と言うのは、その武術を担当する大男で、主人公のバディとなる明人です。
明人と書きましたが、彼は国籍を問われた時に「南宋だ」と答えています。
「嘘をつくな。南宋などと言う国はもう無い」と言われると、自分が南宋人の末裔であり、明に捕らえられて奴隷とされて海賊船で働かされていたのだと説明します。
この感覚。
海上には、陸での国籍を超えた一大海賊王国が広がっていたというのが海の史観なのですが、彼もまたその王国の一人です。
国土の上ではとっくに無くなっているはずの南宋の時代から海の上で暮らしていれば、それは南宋人なのです。
南宋の最後の国土と言えば呂宋(ルソン)。繰り返し書いてきましたが、呂の宋ということで呂宋と名付けられたこの場所は、元に大陸を追われて南下してきた南宋の最後の王都です。現在のフィリピンの首都は南宋の都として開拓されました。
その中央は東都(トンド)と言われ、スモーキー・マウンテンで知られるスラム街です。
通称は「チャイナ・タウン」と呼ばれており、現地の人達から口々に「チャイナ・タウンには近づくな」と言われました。
墓地を見ると、古い中華式のお墓が並んでおり、歴史の古さを感じさせます。
大倭寇の時代の倭寇の大頭、王直が亡きあとは、このルソン近くを縄張りとする林鳳が後を継いだと「海狼伝」にはありました。
林鳳。これは私が通称「騎士団長殺し」と呼んでいる絵画にも記されている、倭寇によるマニラ襲撃事件を起こした歴史に残る親玉です。
彼らはスペインによるフィリピンの支配を覆し、ルソンを自分たちの手に取り戻そうとしていたことが描かれています。
おそらくは「騎士団長殺し」の事件もその流れの一環で起きた闘争なのでしょう。
スペインの駆逐は出来ませんでしたが、その後トンドのチャイナ・タウンには、現在に至るまで、中国の海賊勢力の後継が住み着いており、ラプンティ・アルニスはそこに伝わった広東の海賊武術、蔡李佛拳の影響で成立したものです。
この、西洋とアジア圏の海賊海域におけるその後の経緯も、この「海狼伝」および続編の「海王伝」には描かれています。
東西の海賊連合が明への一大戦線を張った大倭寇の乱というのは、明の海禁に対する抗議運動でした。
香港の民主化デモに似ています。
明が海禁を解いて貿易を許可するようになったことでこの乱は収まったのですが、二つだけ例外がありました。
一つは「通倭の禁」と言って、倭寇の首魁となった日本だけは以前海禁をしないということです。
実際は偽倭と言って、月代を剃って日本人になりすました外国人が倭寇の九割を占めていたそうなのですが、これは名目上お裁きには必要な処置だったのでしょう。
もう一つは、仏狼機賊です。
これはフランキと呼ばれていたフランク族、つまり色目人、白色人種との貿易の禁止です。
このため、スペイン、ポルトガル、オランダなどは一度東南アジアで貿易をして、そこから東南アジアの海賊たちが改めて明と交易をするという手順が必要になりました。
つまり、大倭寇の舞台となった南シナ海の海賊海域は、明を主体に琉球、台湾、シャム、マラッカ、ジャワのみが交易する新しい海賊海域となった。
どれも見覚えのある地名ばかりですね。
中国武術、空手、ムエタイ、シラットなどのアジアの伝統武術、私が海賊武術と呼んでいる物の育まれた土台がここにある訳です。
フィリピンに関しては、スペイン領だったのですが、そこで周辺のシャム、マラッカ、ジャワなどの地域との中継港としての役割があり、アジア武術とスペイン武術の混交が何度も行われてアルニス(エスクリマ)が生まれました。
この時代のこの辺りのことを描いた物語は存外に多くないのですが、私にとってはたまらなく魅力的なお話です。