山田長政亡き後のアユタヤ日本人街は王宮からの襲撃を受け、生き延びた人々はカンボジアの日本人街に亡命したと言います。
勇敢な活躍のおかげで、タイの日本人街が有名ですが、実はカンボジアの日本人街のほうが大きかったのだと言います。
また、フィリピンの日本人街も歴史がありました。マラッカや台湾も同様で、この時代の海洋世界にはあちこちに日本人が見られたようです。
世界中の銃が日本に集まっており、また世界中の銀の多くが日本から輸出されたものだったことを鑑みると、当時の日本人のメジャー性もうなづけます。
しかし、どこの国でも、日本人は野蛮で粗暴だと言われて風評が芳しくありません。
たいていが戦国武者だから当然かもしれませんが。
反面、日本武術の有効性も広まっており、大倭寇の時代以降中国では「我が国の刀術は倭人の術より学んだ」とアップデートの記録が残されており、これは近代の民国初期にまで続いているのだから実質現代にまでと言っても良いでしょう。
しかし、これにはちょっと疑問がありました。
これらの国の海賊武術はおしなべて二刀流なのですが、それはいまいち日本ぽくない。
戦国武者は二刀が普通だったという話も聞かない。
ではなに?
西洋剣術側からの流入文化かとも思うのですが、なぜにそこだけと思うところがあります。
また、断片情報も不審で、倭寇の群れの押し寄せるさまを官軍は胡蝶の陣と呼んだのですが、それは彼らの掲げた両刀が蝶の羽に例えられたものだと言われています。
しかし反面、陸戦での倭寇衆は長柄の武器の下を、両手で一刀を構えてデリカシーなく飛び込んでくる戦法で怖れられていた。
この入身戦法は日本剣術として納得が行くのですが、じゃあ胡蝶はどこに行った?
となります。
当時の絵図を見ても、確かに両刀を持っている。
しかし、彼等倭寇の倭刀術を模倣した剣譜の表題は「単刀法選」。倭刀術をして単刀法と称しています。
これは?
長年疑問だったのですが、最近読んだ本の中では、海戦時に相手の船に切り込んだ時に、あれで綱や帆布を切り裂いて機動力を奪うのだと書かれていました。
海賊武術の定番である二刀流には、そのような環境上の理由があるのだと分かったことは大きな文化的収穫でした。