ここであらためて振り返りたいのですが、80年代のジャンプの編集部では、情報性が高い物はいいマンガだという考え方がありました。
これは、マンガ原作者が大ヒットを飛ばしていた梶原一騎時代の名残かもしれません。
あるいは、劇画ブームの頃に出来たセオリーなのかもしれません。
その中で、北斗の拳も、キン肉マンも、ストーリーマンガの製作にはきちんと取材や費用を割いています。
一見荒唐無稽なキン肉マンも、実は筋肉の書き方や漫画としての絵柄の研究はすごくて、膨大なしりょうが作者のところにはあったそうです。
その後のオタク世代のような、マンガを見てマンガを描く、というようなことが否定されていて、一流のマンガ家というのは本物を見てそれをマンガにするという工程でマンガ制作力のようなものを磨いていたようです。
そのために、荒木飛呂彦先生はイギリスに取材にいってジョジョを書き始めたそうですし、雁屋哲先生は松田先生をブレインにして中国武術検証をして男組を大ヒットさせました。
さらに、そのヒットで稼いだお金を全部はたいて世界の料理の取材をして、美味しんぼを書き始めたそうです。
そのようにして作者それぞれが、現実を自分の力でマンガにしてゆくということをしていた中、鳥山明先生の一番すごいところは、立体を二次元化する能力だと言われていました。
明日のジョーやドラえもんのスネ夫、鉄腕アトムの髪というのは、二次元にだけ存在する見立ての中の物で、三次元的には成立不可能なデザインになっています。
しかし、鳥山先生の絵というのは、本当に三次元の物をそのまま絵にしたように見えるというのが初期の頃の定評でした。
その力を最大限に誇示するように、鳥山先生は実在のメカを作中に登場させた扉絵などを多々発表してゆくのですが、それはまさにタミヤのスケールモデルのパッケージ絵そのもののようでした。
実際、鳥山先生は自分でメカを作ることが出来たそうで、廃品からバイクを組み立てて乗ったりしていたそうなので、その辺での機械との接し方がその画風に反映していることは間違いないでしょう。
このような、作者が捉えた現実の表現という物がマンガであるという前提があるからこそ、私がしているような解析や見立てと言う物が成立する訳です。
さて、本題に入りますと、ドラゴン・ボールの物語というのは中国的世界の水墨画のような奇観の山中に住んでいる野生児、孫悟空の所に都会からブルマという少女が訪れたことで始まります。
この山中、大きな川が流れていることからどうも黄河か長江の源流方面、中国西側をイメージしているように思えます。
その辺りから察しても、ブルマがやってきた都会の方というのも現在中国の発展地帯である西の沿岸地帯というよりは、西遊記の頃の都である長安の辺り、国の中央辺りであるように感じました。
シルクロードの時代くらいの雰囲気の設定なのではないかなあと思う処があります。
一方の孫悟空はと言うと、しっぽの生えた野生児という異人の造形をしています。
これは、名前からサルを連想しますが、実際彼は満月を見ると巨猿に変身して理性を失うという妖怪性を感じを持っています。
このモチーフなのですが、孫悟空が「カンフーやってる」と言っている通り、武術に関わる物であるように思われます。
いつも書いているように、中国のカンフーは西洋的な格闘技とはまったく概念が違うもので、気功を通して人間の本能である元神を引き出して活用するものです。
同じ考えで、気功が進んで元神が発達すると仙人になれるという中国の考え方があります。人間以外の物が仙人になることを妖怪と言います。
西遊記の主人公、孫悟空というのは、たまたまサルに似た形の石が天地の気を浴びてものすごく長い時間がたったことで命を持ち、動き出したという妖怪です。あれ、サルの妖怪じゃなくて石の妖怪です。
その妖怪という仙人が、同胞の妖怪仙人たちの妨害をしのいで仏教の経典を取りに行く修行をするというのが西遊記のお話です。
これつまり、それまでは仙人になることが人間にとっての救いだとしていた道教の考えでは人心と世の中を救えないと感じた唐の玄宗皇帝が、国教として仏教を求めたと言う背景が垣間見えます。
その孫悟空をモチーフにしてのドラゴンボールの孫悟空。やはり妖怪仙人の気配が感じられます。
本能を活性化することが出来て仙人になれる人というのは、仙骨と言って尻尾が生えているとされています。
悟空の尻尾はその仙骨を描いた物であると思います。
つづく