ネットを活用して告知や伝達をしていると、どうしても要らない物が目に入ってしまう。
また先日も、なにがしか稽古をしているらしき人が他門の批判をしている文を目にしてしまった。
もちろん、世間に存在している以上、批判を受けたり噂をされたりするのは当たり前なので、それ自体が悪いとは思わない。
気にかかったのはその趣旨で、他派をして、いずれ消えるとか普及しなくなるからよくないというようなことを訴えていた。
ネット社会は、相変わらず承認欲求が中心の世界だからそのような視点になるのだろうと思う。
人口に膾炙しているかどうか、世人に受け入れられ易いか否かということが、仮にもやっていると自称する人間にとっての判断基準になるというのは私には嘆かわしい。
内容の良しあしではなく浮世の栄達が価値基準となっているということは、一体いかなる芸をしていることなのだろう。
古伝の伝人という立場からするなら、なくなるならなくなるで全然構わない。
内容のいかんを問うことも出来ないようなレベルの人間に広く伝えて希釈されては、結局原型をとどめないのだから有名無実だろう。
それはもう、無いのと同じことだ。
形骸のみを求めて有名無実を由とする現代の考え方が、私にはまるで分らない。
きちんと分かる人間だけに伝えて、衆愚にには門を閉ざす節度というものが、本来武術にはあるのではなかろうか。
ちょうど、ある名人の伝奇を読んでいたところ、その先生もまた私と同じく狷介で、現世の栄達には関心がなかったとあった。
門人の選別が激しく、門下が出来ないと時に苛烈に怒ったりもしていたようだ。
結局その名人の技を受け継ぐ物は居なかったけれども、その英名はいまも残っていて、人類という物がそこまでの技術を可能としたという記録を伝えている。
それで充分ではないか。
高度なことをやっていれば万人に理解できないのは当然のことだ。
それを多数決でごまかし、人気投票をして優劣を述べるなどとは愚の骨頂。
現代人は承認欲求に囚われている。
承認欲求とはコンプレックスからくる物だとはアドラー哲学の考えだ。
惨めな人間が自分一人と向き合って高みを目指すことなく、群れて多数決でなれ合っては疵を嘗め合う。
そのようなことに加担しないのが本来の芸の在り方ではなかろうか。
馴れ合いを求めてやってきて、まともに稽古をしないような者は相手にしなくてよいのだと改めて思った。
くだんの名人も「何しにきた! 俺はお前が嫌いだ!」と生徒を追い返すこともあったようだ。
私の大師も、与えた課題を練習しないでやってきた生徒には怒ってもう来ないように言ったという。
それで良いのではないか。
やる気がない者を百人集めても内容としてはなんの意味もない。
本気でやっているなら、本気の人間だけ相手にするので精一杯になるのは私の能力が不足しているからという理由だけだろうか。
芸を求める物は、善を志向しなければならない。
この場合の善とは倫理におけるそれではなく、哲学用語の善だ。
これは、自分の本質的な欲求のためになること、といった意味だと言えばよかろうか。
ニーチェなどは、本質として人を殺したいと言う欲求を抱えているなら、その人は断固としてそれを決行すべきだとまで述べている。
哲学における善とはそのような物だ。
その善を抱えてそれに突き動かされるのではなく、他人との関係の中で生まれたコンプレックスや承認欲求で芸の場に身を置いても、本当に入骨に至ることは難しいだろう。
自分の中の意思と自己を高めようという習慣が一つとなったときに、始めて芸が身に入る。
小我のような者は取り払うのが効率的だ。
芸をおろそかにして自我ばかりを愛でようというような者は、古典にとっては縁なき衆生と言ってよいのではないかと思っている。
高みにある伝統武術は哲学の具体だ。
学問の具体は本やノートではない。
それを行う人間そのものだ。
自我をおいて哲学そのものとして生きることが出来る人間が、この学問そのものとなる。
それをしない人間を何万あつめようとも、それは小我の群れで在って、そこに本質は顕れないのではなかろうか。