先日、無事に第一回太拳講習会が終わりました。
内容としては、チワン武術の色濃い、蔡李佛を初歩の段階で使う拳の紹介なのですが、もちろん形式だけではなく、その中身についても触れさせていただきました。
中国武術は段階によって同じ招式でも違う中身になります。
その、変化する段階を数段階に渡って説明という非常に濃い詰め方をしたつもりです。
本当に初学の内なら、移動をし続けながら肘や膝をすり抜けざまに打ち込んでゆくという段階でよいのですが、その先がセットになっています。
もし、肘打や膝打が避けられたなら、そのまますり抜けたところから泰拳名物振り返り攻撃を打ち込むかそのまま言ってしまえばよいのですが、受け止められてしまったらそこからが連環の始まりになります。
とはいえ、通常のように連打をしなくても良くて、そこから借力をしてゆくというのが太拳の特色です。
ただ、この段階では本格的な借力が出来ないレベルである可能性もあるので、それでも使えるように行います。
その、基本的な借力を、通称「汚い借力」と呼んでいるのですが、これは実は私が昔、北の拳法をやっていたときに含まれていました。
参加者からも同様の意見が出ていましたが、恐らくは中国武術に普遍的な古典の技なのでしょう。
これがレベルアップすると、柔術的な技になります。
私がそれを習ったのは自分が師父になってからで、ある夜、公園で師父に「なんでもいいから掛かってきなさい」と指示されたので、その言葉が終わりきらないくらいの内にすかさず打ち込んでいったところ、その力を使って身体全体を持ってゆかれそうになりました。
そこはさすがに途中から反応して定力の繋がりを強めてなんとかしのいだのですが、もう少し対応が遅れていたらぶっ飛ばされて空中回転しながら地にまみれていたことでしょう。
「これは……」と思わずつぶやいたところ「こういうのもあるのです」と言われました。
私が打ち込んだのは、大師が「日本刀のように」と伝えてくれた掃槌です。
本道の招式で、袈裟切りにするように打ち込みます。
受け止められてもそのまま打ちぬける、ブルース・リーがかつて敗北して「蔡李佛の勁は受け止めることが出来ない」と表現したものです。
迷いも計算もありません。ただ打ち込み、撃ち抜く。
それを師父は、得意である抛槌で返してきました。
ただ、こちらが先手を取っているので相打ちになってもわずかに先に触れたらこちらが打ち勝ちます。
しかし師父は抛槌の動きのまま私を打つことなく、その流れの中で私の力を加速させて流し、自分の勁で自分が飛ぶように仕向けてきたのです。
蔡李佛の中には元々、自分の槌の力をいくらか移動力にまわして、打った力で移動するという方法があるのですが、それと同じことを私の内側に働いている力のベクトルを操作して外からさせようとしてきたのです。
接点から私の内側の、力の繋がりのシステムに干渉して誤作動を起こさせようとした。ある意味、ハッキングのようなテクニックです。
これが、通称「きれいな借力」でした。
身体の内側に働いている力を乗っ取って倒すので、外側からは見えません。
この段階まで、太拳講習会でもやりました。
ただ、これもまたやってみたら皆さん存外に苦労する。
それは確かに、外からは見えないのだから仕方ないかもしれない。
つづく