力の使い方に関しては、地道な練功で上げてゆくに尽きるのですが、相手の力を読むということに関してはもう一つ苦労が必要になってくる気がします。
首を絞めるとか後ろから大殺しに抱くとかの力のかかり方を特定していない場合に、どうすれば力が読めるでしょう。
いきなり打ちかかってきたりするときにそれを読んで反応するのは確かに難しいところです。
ただ、それを読む感性を養うために気功が重要になる気がします。
平素からこれを行うことによって、外部に働いている力を感じて暮らす習慣が付きますのです、これが可能となることと思われます。
自分の周りで流れる風の方向や、光の角度をいつも感じていれば、その圏内に入ってきた力を感じるのは殆ど習性のようになる気がします。
我々蔡李佛では、重要な教えとして他力と言う物があります。
これは仏教の教えで、自分以外の力を中心に生きるということです。
我がの力を頼みとすればエゴが勝ります。
常に、自分以外の力の流れに乗って暮らすことこそ、この武術の大切なところです。
これは借力だけでなく、勁の運用全般に及ぶところです。
長勁の武術であるため、常に尽きることなく勁を発し続けて、それを運用しなければなりません。
これを無尽勁と言うのですが、これもまた他力の運用です。
常に周囲に働いている自然の力を自分の中に通すのみです。
その周囲の力がたまたま襲ってきた相手の力であったときに、借力となります。
この段階になると、借力もまた発勁であると言えるようになるのではないでしょうか。
このように、色々な要素をから物を学びますが、結局は帰結するところは一つ。
すべては一つの同じことをしているだけです。
この、一に還るということを見失ってあれこれと目先の形の違いに惑わされていては、本当にしっかりした自分の功を掴むのは難しいこととなるでしょう。