最近、幻の日中合作大作映画「英雄 国姓爺合戦」をディグることができました。
台湾の話なのに制作に絡んでない、そのせいか清朝もいい物になってる、合作と言いながら日本がほとんど出てこない。役者さんでは島田陽子さんだけ、といういろいろとお察しな即抜け超大作なのですが、この作品の見どころは、国姓爺こと鄭成功という海賊史上最大の大物の一人を描いていることと、スペクタクルな描写で当時の海戦の絵面を見ることが出来ると言う二点だと感じました。
鄭成功は、日本と中国のハーフで中華史上でも重要な英雄。そして南シナ海中に影響を及ぼした海賊でかつ台湾を西洋から東洋人の手に取り返したという、非常に重要な人物であるにも関わらず、現在ほとんど日本では顧みられていません。
のみならず、鄭成功大好きな台湾でも、日本人の息子であるということはほとんど知られていないそうです。
私たちの海賊武術は、宋の時代の初期倭寇、明の時代の大倭寇、清朝期、鄭成功の時代(十七世紀)の海賊たちの武術を土台としています。
特に、台湾に最初に中国武術を持ち込んだのは鄭成功らだと言われているのだから大変重要な存在です。
さてこの鄭成功のDVDのジャケットですが、双刀を構えた甲冑武者が大写しとなっています。
この、双刀というのは洋の東西を問わない海賊武術の定番でした。
陸上では歴史からほとんど姿を消すサムライの二刀も、海上に行われていたと伝えられています。
倭寇たちが大小を左右の手に持って群れをなして押し寄せるさまを、防衛側の清朝武士、戚継光将軍は胡蝶の陣だと呼びならわしました。 当時の海戦というのは、離れたところでは砲を打つところから始まったそうです。
元寇当時、音で威嚇するだけでまるでこけおどしだとバカにされていた砲ですが、海戦では海を揺らすと言う重要な意味がありました。
これは、小早などと言われる小型の船が機動力に物を言わせて襲ってきたときに、近くに着弾させればそれによって発生させた波で転覆させる効果があります。
距離が詰まってくれば、火矢を撃ちあって本格的に船のへのダメージを与える戦いとなったおようです。
この後に、船を接弦させて鉤縄などで足を停め、そこから乗組員を切りこませるということが行われていたそうです。
もちろん攻め込まれた方はこれを白兵戦で迎え撃ちます。
艦上で戦うこの時に、二刀が常用されていたようなのです。
寄せ手の側は相手の船の帆布や縄などを切って船の機動力を奪おうとします。
対して、守り手の側は相手の渡し板や鉤縄を切断したい。
そのようなときに、両手に刀があることが重宝されたようなのです。
そのまま海戦に押し勝って陸上まで攻め込んだ時も武装は変えたわけではないのでしょう、倭寇は陸戦においても双刀を手にしている絵姿を見せています。
日本武士はこのような白兵戦要員として知られた存在らしく、く、オランダが天川(マカオ)に攻め込んだ時も、防衛側のポルトガルにやとわれていました。
天川には当時多くの日本武士がいたそうなのですが、のちにあまりに粗暴だとして日本人追放令が出されています。
ちなみに、この後、オランダは目標をマカオから台湾に変更、侵略して活動拠点として展開します。
これを取り返したのが鄭成功で、映画の中でもその時の城攻めがクライマックスなのですが、当時のオランダ兵の通常武器は当然銃砲です。
それに対して、鄭成功側は甲冑を着ていることです。
これは彼らの鉄人という特攻部隊だそうです。
彼らが銃弾を受けとめてはじき返して戦線を推し進め、それに続いて盾と刀という南方中国海賊武術の定番装備をした兵士が乗り込んでゆくという物のようです。
盾はもちろん銃弾避けです。
それはいいのですが、オランダには名物のフランキ砲があります。
これは大砲の類なので、鉄人の甲冑や盾ではまともに受けることはできません。おそらくは爆発が起きて飛来するガレキから身を守るというのが重要だったのではないかなあという感じがします。
城まで攻め上ると、攻城戦となるのですが、この時に面白いのが中国名物の城壁を登る部隊がいることです。
その中に、竹の棹のような物に身体を括り付けた部隊がいました。
竹を後詰の仲間が持ち、先頭の一人を壁に押し付けるのです。
それを支えに、括り付けられた兵は軽功で城壁を登ってゆくという特殊部隊なのですが、これはおそらくのちのワイヤー・アクションの原点なのではないのかなあ。
香港に住み着き、食い詰めた海賊の末裔たちが始めたのが武術で娯楽を提供する香港映画の世界です。人を宙づりにするお得意のテクニックが、攻城戦の武芸から来ていても不思議はありません。
ちなみにこれをパフォーマンス化した物を目にしたジョージ・ミラー監督は、マッドマックスの中でこれを使って襲撃してくる部隊を登場させています。
城に入り込まれて接近戦に持ち込まれたが最後、マスケット銃で武装したオランダ兵が、甲冑や盾と刀でバランスよく武装した鄭成功軍に押し寄せられて勝てるわけがありません。
オランダ軍は降伏、台湾は鄭家軍の物となり、中国侵攻の拠点となるのですが、この時にはまだ、どうも土着の台湾人と外省人の間には壁があったのかもしれない。
台湾において言語が統一されるのは、はるか時代を経て日本統治下に至ってからです。
皇民化政策においてほどこされた皇民化教育で日本語を教育されて、初めて台湾の土着の人々は、それぞれの部族ごとに違った言語の壁を越えてコミュニケーションが取れるようになったのです。
南方において倭寇の時代からずっと悪名高い日本ですが、台湾では好日と言って対日感情が良いというのは、この辺りのことが大きな影響を及ぼしているようです。
言葉を与えず阻害するというのは、世界中の支配者の定番の手段です。
少なくとも当時の日本人は、本当に台湾を日本としようとしていたということがのぞきみえます。