前の記事で、片方が腕を掴んで相手の体内に勁を流して潰そうとし、された方はそれを勁でこらえるということを書きましたが、これは腕試しだけではなくて、練功法としても行います。
排打功の一種なのですが、自分の内側から勁を出してこらえると、要はある種の勁の筋トレのような効果があります。
相手の圧に負けてしまって体内の勁の繋がりが切れてしまうとたちまち足元に抑え込まれてしまいます。
しかし、入ってきた相手の勁を捕まえてそれに自分の勁をぶつけて打ち勝てば持ちこたえられます。
つながったまま負けてしまうと、ジワジワと沈められて行ってしまいますが、これはこれでよろしい。勁の運用は間違えていません。
このようにすると、大変に消耗します。
消耗しますが、鍛えられているので勁がとても強くなります。
なにせ勢いなくゆっくり勁がかみ合っている間は、とにかく安定した正しい勁の運用でしかこらえられない。
負けそうになったらもう、自分の内側の正しい力にしがみつくようにして耐えることになります。
そうしているうちに、勢い関節運動、体重移動でごまかさない、正しさへの信頼が心身に刷り込まれていきます。
そのようにして、鉄仏や銅人のような不動の定力が作られてゆくのです。
仏教武術としては不動心と言ってもいいかもしれません。
たとえ強い心があっても、苦しくなってきたときに動きでごまかそうという心に負けてしまっては、たちまち勁は切れて一気に押しつぶされてしまいます。
霊肉の二つを一つとして運用するために用勁の練功をしているので、心を澄まし、自分を一つの力そのものに整えてゆくことに意義が感じられます。
そのようにして自己を一つにしたとき、他力がもっともよくそこに通ります。
これこそが自我を離れた力、自然界そのものに存在しているもろもろの力です。
そのようにして、自然と一つになれたときが、我々の求める上々の状態です。
それに日々慣れてゆけば、掛かってくる力を自分の力で跳ね返すこともできます。
名人たちの逸話では、大男や大力の挑戦者に腕を抱えられた老人がびくともせず、腕の一振りで相手を高く吹っ飛ばしたというようなことがよく語られますが、空高くかどうかは別として、抜根までは普通に行えることです。
抜根とは地面に根付いた自分の力が、相手の根っこを引き抜くようにして重心を地面から奪って飛ばすことです。
世の中には重力があるので浮くのは一瞬かもしれないしわずかな高さかもしれませんが、これはバランスを崩してよろめかせることとは本質的に違います。
バランスを崩さずに持ち上げるといったことに近い。
それを十分に経たあとで、こんどは線を細く使って、小さく崩してゆくという技工のことに向かいます。
地力を養う前に技に頼ってしまうと、結局小手先のごまかしばかり覚えて本質的な功夫が手に入らない。
二期メンもそろそろこの辺りの、絶対的な地力の強さを養う練功をしっかりやりこんでほしいと思っているところです。
これさえ覚えれば、あとは予科として技工を齧っても良いかと思われます。
巷間の武術道場は、華々しい小手先の技ばかりをどうしても見せる傾向がありますが、本質はそこではない。
大切なのは人としての根っこの強さを養うことだと考えます。