この度の台風で、私の昼間の仕事、メッセンジャー業は半ドンになりました。
いくら気功の思想に叶った生活がしたくて、朝から晩まで空の下に生身を置いて風を感じたくてしている仕事でも、強力な台風の中をバイクで走っていては中庸を欠きます。
なにせ私の巡回ルートは、湘南の海を臨んで相模川を横断し、大山連峰のふもとを北上するという実に風光明媚で雄大な自然の中なので、嵐の時には天災のオンパレードになります。
まぁ、とはいえひどくなる前に一応途中までは行ったので大概は大概な物なのですが。
昼前に営業所に戻り、それ以後は家にこもりました。
公園での練功もキャリステニクスもなしです。
自室での体のメンテナンスまでに留めましたよ。
私はこの人生は学問に費やす物だと思っているので、この思わぬ休み時間は大切な物です。ありがたく書見をしたりDVDを見て見識を深めました。
平素は、DVDや動画を見るときには海外での修行に役立つよう英語の勉強を兼ねることにしているのですが、こういう折なので珍しく非英語圏の作品を見学しました。
一作目は、もう個人的には映画史に残るレベルの傑作だと思っているマッハ弐!!! です。
これ、アユタヤ王朝時のアジアの感じをすごく表現した素晴らしい史劇でありつつ、マーシャル・アーツ映画版のハリー・ポッターみたいなワクワク感もあるし最終的に芯の通った仏教法話でもあるしで、ほんと素晴らしい作品ですよ。マッハは一作目がメジャーですけど、あれは伏線で、スター・ウォーズと一緒で三作合わせての傑作ですからね。
その「帝国の逆襲」にあたるマッハの二作目を観終わって、次に観たのがレイン・オブ・アサシンという作品です。
あまり聞いたことが無いと言う人も多いでしょう。
ジョン・ウー監督の武侠映画です。
これ、レインというのは主人公の女性刺客のことを意味しているのですが、刺客としての活躍を描いた作品ではありません。
刺客を辞めて整形を施し、市井に隠れ住むところから話が始まります。
そこから、手に入れた物はその経絡の活用法を読み取って達人になれるという達磨大師のミイラを巡る争奪戦が始まり、またかつてレインがかかわった事件の因果が巡ったりするのですが、それらを飲み込みつつ行われるのが、男女の機微のお話です。
それも、抒情的なロマンスというような作品ではなくて、達磨大師の経絡に現されるように、気功の性的な側面のお話になっています。
これは日本人にはちょっとわかりにくい部分なのですが、中国ではセックスの力を高めるためにカンフーを始めるという人が居るくらいに、性の力と内功は直結しており、生命の健康そのものとして受け止められています。
いわゆる、房中術、という物です。
だからこそ、その精を超越した宦官が最強の拳士になりえるとか、その手術を施したニューハーフ剣士や女形俳優との恋愛を扱った映画が作られ続けているのでしょう。
このダルマの亡骸を狙っている悪者一味のメンバーというのが、倫理感も知性もない可愛いだけの毒婦、爺さんの手品師、若い男でイケメンだけど不意打ち専門で男らしくない、ボスの宦官、という顔ぶれです。
彼らは性のタイプのアイコンとして見ることが出来るような気がします。
毒婦は若い娘の女性性だけで、色仕掛けだけが武器で中身空っぽ。
奇術師は老人なためか、達磨の遺体その物には興味がなくてそれを売って得られる利益を目的としています。
軟弱な男は、見かけだけは男のようにふるまっていますがだまし討ち専門で実力が足りません。
宦官に至っては、性器が無いのに性欲があるのでおかしくなってしまっています。
彼らを倒すのが主人公たち夫婦となります。
夫婦なのです。
凄腕暗殺者だったヒロインだけでなく、ボンクラだと思っていた旦那は実は韜晦していただけで、浮浪雲的なひそかな武術の達人でした。
この、平素は侮られているけれどすべてを見通していて、悪人たちの正体や腕前も一目にして見抜いてしまうような大人風と知性の持ち主というのは、実に東洋的な男らしさを表現してます。
つまり、これは成熟した理想的な男性性と女性性の持ち主二人の夫婦が、間違ったセクシャリティに囚われた類型的な人々を打ち砕いてゆくお話に見れるのです。
打ち砕かれる側の際たるものは宦官である頭領で、男らしさへのコンプレックスから武術に取りつかれて暴力を自分の強さだとみなすと言う低レベルの人格に留まり、毒婦の小娘に惚れた結果、愛を得られないと分かるや生き埋めにしてしまいます。
動けない彼女を手ずから埋めながら、愛してるよ、毎日ここを通るたびにお前を思い出せるなんて幸せだ、なんてうっとりした顔で言い出す始末です。
これらのことは、性の力と言う物をまっすぐに受け止めそこねると正しい生き方は出来ないという中国の思想から来ているものであると思われます。
これは、私が学んでいる気功の思想におけるもっとも根源的な生命力である「精」の運用にかかわるものです。
内功で精を運用させることが出来ると、それを高次の精神力だとも言われる神に還元することが出来ます。
そして神が向上することで、識という物が高まります。
識とは即ち認識能力であり、認識能力とは人格その物であると考えられます。
認識能力が高まると世界の在り方そのものをより正しく認知できるので、正しく生きられるようになるからです。
よって、識たかまるとタオと共にあることが出来る。
仏法風に言うならタオとは空というところでしょう。
つまり、識即是空です。
気功とはつまり、自分の性と向き合い、それを是正するための具体的なメソッドであると言うことが出来ます。
それに副次的に派生するものが、セクシャル・ヒーリングである気功の施術であり、性の力を理性で管理するための学識です。
この部分が理解できないまま中国武術を行って気功に触れても、真髄は理解できない。
気功に含まれる施術の手わざだけを覚えても、本義が分からず自分は消耗していってしまう。