このブログを読んで、私を読んでいただいて、思想についてのお話をご所望くださる方がいらしたというお話を書きました。
これは、私の活動がようやく正しく実を結び始めたということのように感じています。
本日の練習でそのことを生徒さんにお話しました。
そして、それは私がいま、師父の所に行って自分の稽古をつけてもらうときも同様のことであるというお話もしました。
練習の多くは二人でのお話となります。
その折に、技術論などはまず交わしません。
私たち、正統な伝統流派の人間にとってはそれはまったく不要なことです。
これは同門間のみならず、他派の先生方と接しているときも同様です。
一切技術のことなどには触れません。
なぜなら、正統な教えを受けている物にとっては、技術と言うのは師伝によるものであり、師伝という物はそれぞれの者がそれぞれの出来に合わせて師から与えられるものだからです。
同門の師兄弟が同じことをしているとは限りません。
この生徒にはこれが良い、この生徒ならこちらが向いていると、師はそれぞれに必要な物を与えているからです。
例えば同じ時に、ある者には槍の伝を与え、ある者には剣の術を与え、ある者には刀の術を与えて、ある者には軽功を与えるということになります。
私自身、そのような経験をしたことがあります。
この時、四肢が長く膂力に勝る物の、いささか自分の身体を支える力が足りない者には槍をして身体を作ることを求めていたかもしれません。
剣の課題を与えられた者は、器用さや感覚の繊細さ、敏捷さを伸ばすべきだと見なされていたかもしれません。
刀の者は力が強い者で勢を求められていたかもしれません。
軽功を伸ばせるのは、まだ若く身体が育ち切っていなくて体重も軽い者でしょう。
それぞれの必要に合わせてこれらはコーディネートされているので、もし刀の伝を与えられた者が友人の練習している剣をこっそり分けてもらったとしても、きっと天稟にあっておらず、また持ち前の勢を殺すための小技に小さくまとまってしまって持ち味が死んでしまうかもしれません。
あるいは、まだ身体が出来ていない少年が長く重い槍を真似ても、使いこなせず身体を損なうだけかもしれません。
このように、練功法というのはそれぞれを伸ばすために与えられるので、人から盗んだり分けてもらったりしても、ほとんど意味がない。
違う患者に処方された薬を手あたり次第に飲むような真似をすればかえって悪いことになりかねません。
なので、自分を知る師が機を見て自分に与えてくれた物だけが、自分の功に繋がる物です。
汎用的な技術など求めてもまったく意味がありません。
兵器を例に出しましたが、鉄布衫や内功、いくつもの種類の用勁についても同じことです。
中には混ぜてやってはいけないものや、会わない体質の者がしてはいけない物もあります。
素人考えで混ぜれば偏差をおこして病みつくことは珍しくありません。
それが分かっていないレベルの者だけが技術論を求めるように私には思えます。
すなわち、師から認められておらず、真伝を与えるに足らないと見られている者です。
そういった者がなんらかの手段で知識としてやり方を知っても、やはり身につけることは出来ないでしょう。
偏差をおこして病みつくのが落ちです。
さらに言うと、それが分かるまで正しく学んでこれている師父となれば、自分の中ですでに教えがすべて円環して一貫した物になっています。
そこでさらに求め続けるは思想であり、いまさら上辺の技術論などではなくなっているはずだと感じます。
え? まだそのレベルなの? という感じです。
技術は哲学を身に着けるための物であり、いつまでもそこに執着しているなら、それはまさしく、まだまだ眼が開いていないということでしょう。
まだそのレベルではないのに、自分の課題以上の技術をさらに求めても、やはり何も身に着けることは出来ないのではないかと思われます
技術論に囚われて人の命の在りかたについて語れない人は、そこまでの処にしか至っていないのであろうと私は思っています。