南王、馮雲山が蔡李佛の拳士であったことを考えると、太平天国革命の経緯が見えてきます。
まず、蔡李佛拳の開祖である陳享先生は、少年期に叔父の陳遠護先生から洪拳を学びます。
洪拳というのは、革命結社洪門に伝わる拳法で、清朝によって少林寺が焼き討ちにあったときに落ち延びた五人のマスターによって拳を伝えられた革命家が編み出した、という伝説があります。
実際に誰が編み出したのかはともかく、これが秘密結社に伝えられていた革命拳法であるというのは信ぴょう性ああるお話です。
つまり、初めから陳享先生は革命結社の末流にいたわけです。
その中で頭角を現していった先生は、蔡福禅師という人を紹介されて蔡家拳を学ぶことになります。
この人は焼き討ちから落ち延びた五人の少林マスターの一人です。
そこに学びに行けるということは、選ばれた幹部候補であったのではないかということがうかがえます。
さらに、蔡福禅師の下で修業を終えると、李友山師を紹介されます。
この師もまた、五人のうちの一人です。そして、客家の出身だといいます。
客家というのは巨大なドームのようなテントで集団生活をする漂泊の民で、革命運動を企てる人々だと言われています。
実際、文革の時も彼らはここぞと活躍しました。
そのように、常に革命に備えて活動をしている民族に、客家拳と呼ばれる拳法群があり、李師の李家拳はまたの名を李家教とも呼ばれて現在も伝わっています。
この〇〇教というのは彼らの武術の名前の特徴で、〇〇家が教える客家拳、というようなニュアンスでとらえると、全体で革命に備えている民族の武術という凄みが感じられます。
李家拳を得た陳享先生は、今度は江西省に潜む青草和尚と言う達人を訪ねろと言われるのですが、この青草僧というのは法号で、名を方大洪と言ってこれまた五人のマスターの一人だったのです。
こうして、五人のマスターの技の内、三つ(初めの洪拳を入れると四つ)が統合されて蔡李佛拳が作られることとなりました。
ここでポイントなのが、青草僧が潜んでいたいたのが江西省だということ。
そう、太平天国の始まりの地です。
とはいえ、中国の省は日本の本土と同じくらいのが大きさがあったりするので、決して近所だとは言いきれないのですが。
蔡李佛拳を編み出した陳享先生ははじめ、広東省の新会村で海岸警備の自警団を育成する仕事に就きます。
そこで海賊の襲撃に抵抗する部隊を調練していたのですが、おそらく、南王に蔡李佛を伝えた龍子才という拳士はこのあたりの時代の門下生なのではないでしょうか。
龍子才が馮雲山と出会ったのがどういう経緯かはわかりませんが、南王が客家であることから、すでに革命家として龍拳士に接していたことが考えられます。
太平天国と言えば洪秀全先生が筆頭ですが、神がかりになった洪秀全をプロデュースして絵図面を引いていたのは軍師である馮南王であるという話があるのです。
だとしたら、龍子才との接触もすでにそのための物として計画されてた気がします。
蔡李佛拳は洪門拳法の集大成なので、客家の革命活動と洪門の革命活動が、ここで繋がって洪秀全という旗印を得て、チワン族という勇猛果敢な人々の勢に乗れたことで太平天国が起きたのではないでしょうか。
その活動が広がる中、あらかじめ想定していたように蔡李佛拳をもって兵士たちを鍛えていった過程で、もともとチワン族というタイ人系民族が行っていた古式ムエタイ(泰拳)である壮拳をその中に取り入れて調練型を作っていった物だと考えられます。
壮とはチワン族のチワンの漢字表記です。
この時に編纂された太平天国の文字を持つ太拳、平拳、天拳、国拳の四つは、蔡李佛拳の中でも我々鴻勝館派に伝わっており、いまでもこれらを使って功夫を練っています。
泰という字も太も、中国語でも発音は「タイ」です。
このあたりの経緯が見えてくると、また感慨深さもひとしおとなります。