下の写真をご覧になってください。
太平天国のレリーフのようです。
彫刻の中に、様々なモチーフがあります。
まず、中央の盾ですが、ここに描かれている顔はおそらく獅子です。
この獅子の盾や獅子舞というのは、洪門の象徴です。
これを持っているのは女性兵士で、右手には刀を持っています。
刀はおそらく太平刀なのではないかと思われます。
太平刀というのは太平天国党が常用していたという刀で、実はあまり切れません。
しかし、これを彼らは女性や老人、子供らにも与えて、総員を兵士としていました。
太平刀と盾というのが彼らの象徴の兵器です。
これが、儒教思想に染まってマッチョな男性しか兵士ではないという清軍に対して数で優位に立つ理由の一つとなったと言われています。
このため、現代では太平天国は近代中国最初の男女、年齢差別の無い組織だと言われてさえいます。
中央に立つ騎兵はおそらく、将校でしょう。
装備しているのが刀ではなくて剣だというのは、身分の高い証拠です。
この男性の跨った馬の蹄の辺りから見えるのが、砲です。
これも太平刀と並ぶ太平天国の看板兵器です。
当時、中国の軍閥では西洋から大砲を買い付けており、それによって結果西洋の侵入を許してしまって経済的にも軍備的にも吸い取られてしまっていたのに対して、太平天国党は自力で砲を製造していたのです。
つまり、時間さえあればどんどん自己生産で武装が増してゆくという大変に厄介な武装集団となっていました。
この大砲のふもとにいる男性が最大の謎です。
私にはどう見てもギリシャの哲学者のように見えてしまいます。
しかし、おそらくはそうではないのでしょう。
ひげを蓄えているところから、上に書いた老人の兵士かもしれないとも取れますが、にしてはえらくたくましい肉体をしています。
ここにいる三者の中で、もっとも肉体を誇示しているといってもいい気がします。
手にレンガのようなものを持っているので、城などを作る肉体労働者かもしれません。
いやしかし、三人中一人だけ兵士でなくて労働者と言うのは何か不自然な気がします。
そこで思ったのですが、もしかしたら彼はチワン族なのかもしれない。
太平天国党は、清朝の押し付けである辮髪を嫌って髪をほどき、それを赤い布で包んでいたため、長髪賊や紅巾党と呼ばれていました。
確かに、色はついていませんが女性兵も騎兵もそれらしき物を頭に巻いています。
しかし、この右下の人物が頭に巻いているのはハチマキのような物です。
これは、タイで言うモンコンではないでしょうか。
ムエタイ選手が頭に巻いているあれです。
あれは戦士が師への感謝を示すために巻く武術家の証だそうです。
そう思うと、この上半身裸のポーズは膝蹴りをしているようにさえ見えてきます。
チワン族というのは、以前にも何度も書いてきましたが、タイ人の一種です。
もともとチベットや中国にいた彼らは、泰族と呼ばれていました。
それらの内、清朝と同じ騎馬民族に追われた人々が避難して東南アジアに移住し、そこで拓いたのがいまのタイ王国の始まりだといいます。
そちらに逃げなかった泰族はいくつかに分かれて行き、その最大の物が現在でも江西省に自治区を持つチワン(壮)族です。その数は非常に多く、中国の六十近い少数民族の中でも最大の人数を持っています。
彼らは勇猛果敢な戦闘民族として知られており、明の時代には倭寇と戦うための傭兵として駆り出されました。
しかし、もともと体制に対する忠誠心が薄いために、倭寇に下ってそのまま仲間入りしてしまったりしたのですが。
彼らは通称を狼兵と呼ばれており、第二次大戦中もゲリラ戦を行って恐れられていて、首狩り族だとか人を食べるだなどとさえ言われていました。
現在の彼らが中国政府から優遇されて広西省の自治区で暮らせているのは、民国時代に共産党のゲリラ部隊として大活躍したためです。
その時代にわたって、革命民族として戦ってきたのです。
察するに、太平天国が広西省の彼らの村、金田村で興ったのは、革命の軍師であった南王馮雲山の計画だったのではないでしょうか。
洪秀全を革命のシンボルに祭り上げて、勇猛で革命精神を持った狼兵たちを呼び寄せたのではないかと思われるのです。
正統な武術を学べば、このように歴史との関りが感じられます。
これこそが、人類の遺産でなくて一体何だというのでしょう。
私たちはいつでも、彼らと自分たちがつながっており、決して今目の前にある何が確かなのかもわからない、損得だけでできた薄っぺらな世間に流されることはありません。
「しっかりして。革命戦士の拳法だよ」
師父からなんどもそのように言われながら、心と身体に向き合ってきました。