笠尾楊柳先生の大著も少林拳の章を読み終えました。
ここまでの中に、ちょっと面白いことを見つけました。
というのは、少林の武術は元でいったん曲がり角を迎えて、明朝時の倭寇の襲撃を期に再アップデートされたといるのですが、この時の功労者が愈大猷という武将です。
この人は倭寇征伐で大功を上げた人として知られているのですが、面白いのは少林僧に武術を伝えたことがあるというのです。
少林寺に立ち寄った時に、僧たちの内から優れた者二人を弟子として連れてゆきます。
以後三年に渡って、ら自らの軍閥において彼らを鍛えて、愈家軍の剣術の極意を伝えたのだそうです。
その後、二人の僧は少林寺に帰ってこれを教授し、継承者は百人を超えたといいます。
この愈大猷が伝えた武術を記した書が「剣経」と言うの物なのですが、これ、実は剣だけではなくて棍の教本であるそうです。
少林で棍と言えば、少林は棍をもって知られるというくらいで、そもそもが棍がもっとも有名で、拳術はあとから有名になったのだと言います。
つまり愈大猷将軍はその少林に棍のアップデートをもたらしたということが言えるでしょう。
面白いのがこの愈将軍、福建省の出身でもともと太祖拳を学んでいたともいわれます。
仮に門派に諸説があるとしても、福建のいわゆる南派武術の使い手であることは確実。
すなわちこれ、南派武術がさかのぼって嵩山少林の礎になったというお話なのです。
少林武術はインド側より北ルートのみならずいくつかの道のりで何度かにわたって伝わったということの一つの例であると言えるように思います。
愈大猷将軍と同時代の抗倭武人に、程宗猷という人がいます。
この人は少林寺に学んだ人で「少林棍法闡宗」という棍法の伝書を残しています。
その中にあるのが、少林棍には大夜叉、小夜叉、陰手棍の三つの套路がある、という描写です。
このうち、大夜叉と小夜叉は架式の大小の差異があるのみで同じものだとあり、陰手棍に関しては両手を陰手にて持つものだとされています。
この陰手というのは、両手の親指が向かい合うように持つことだとあります。
つまり槍のように持つのではなく、バーベルのように持つ訳です。
そして、この持ち方の棍法は我々鴻勝蔡李佛拳に現存しています。
棍は父だ、刀は母だというその棍がまさにこれです。
ここにやはり一つながりの文脈を感じることが出来るという次第です。