慶応大学の准教授が言っていたのですが、人間は相対的な動物であるという考え方があるそうです。
これは、私が日ごろから危惧している人のことばかり気にしてそれを基準にしていて、自分の人生を生きていないということに繋がりそうなお話です。
さらに話を聴くとまさにで、他人より優っていると感じれば歓び、劣っていると感じれば悲しみという感情が湧いてくるのだと言います。
これはもう、そういう生物なのだというのならしょうがない。
種の習性であるというなら理には勝てません。
でも、本当にそうなのか?
少なくとも私は他人とは全然関係のないところで、自分自身の喜びや悲しみを感じているぞ。
でもそれはもしかして、ある種の発達の異常がある人間にだけ見られることなのか?
ここで思い出すのが、コリン・ウィルソンが「アウト・サイダー」で書いたことです。
抽象的な概念が理解できるのは人類の5%に過ぎない、という風に書いてあったと記憶しているのですが、それはつまり主体的に自分の感覚を持っている人間がその程度、ということかもしれません。
ナマコには一切の感覚器官が無いといいます。
ナマコの状態が大悟であるのではないかという生物学の先生の理論で言うなら、自分の感覚を持たない、あるいは放棄するというのは悟りに向かっている状態なのかもしれません。
しかし、同時にお釈迦様は目を覚ませということも言われています。
荘子は瞑想して能動的には働いていない虚と繋がったとありました。
うーん、わからない。
ただ、少なくとも、自分の感覚を放棄するまでは正しい気がするのですが、だからと言って他人の感覚に乗っかるというのはまた過ちであるような気がします。
とはいえ、それは多数決で言うなら95:5で「お前がおかしい」と言うことなのかもしれないのですが。