謝明徳大師の本をまた一冊購入いたしました。
これを読んでいて改めて感じるのが、一貫したこの流儀での思想です。
これまでに読んできたいくつもの著書に渡って、悪い感情というものへの対処について語られています。
人間の感情は内臓に宿っており、それを自分で消化する方法というのが常に語られています。
この感情が自分で消化できないとどうなるか。
一つには、自分自身を苦しめることになります。
怒りや憂鬱が体調を悪くさせることはよく知られていることです。
もう一つには、これがあまり世の中で問われないことなのですけれども、世の中に悪を広めることになります。
いきなりそう言われてもハニャ? という感じですが、順を追って説明いたしましょう。
悪感情が溜まると、それを不用意に外に吐き出してしまうことがあります。
それは、不手際をしでかした誰かへの罵声であったり、動きがゆっくりした友人への舌打ちであったりするかもしれません。
これを感情の不法投棄と言います。
他人や世の中を自分の感情のゴミ箱として扱ってしまう。
そうすると、今度は罵られたり舌打ちをされたりした人の中に悪感情がつもります。
そういったことを繰り返しているうちに、連鎖の中のどこかで誰かがストレスから破壊活動に出てしまったり、あるいは窃盗などに出てしまうことがあります。
私は昔はそういったことをする人々を取り締まる職業に就いていたのですが、事情聴取をすると多くの犯行者が、離婚調停中であったり受験勉強中であったりなどのフラストレーションによって動いていることが分かりました。
残りの動機は快楽であったりあるいは物理的な事情であったりするのですが、そうでない人達は外部からきた悪感情を理由に挙げている。
犯行が起きているということは被害者が存在するので、これは明確に世の中を悪くすると言えることでしょう。
直接法に触れる行為だけが悪ではありません。
DVやあらゆるハラスメント、クレーマー、ひいてはストーカーなどもこのような負の感情に引きずられていることは想像に難くない。
昨今急速な法改正が進められているあおり運転など、まさにこの構造の顕れを代表するようなものではないでしょうか。
直接あおり運転はしなくても、誰しもがその要素を内在しているのではないでしょうか。
世に目を向ければ、お金の拾い方については多くの人が発信をしていますが、自分の心の正し方については非常に関心が薄いように思われます。
誰もが得することばかりに引っ張られている。
しかし、よーく考えてみれば、得することと言うのは損をしないことというのとほぼイコールなのではないでしょうか。
自分の心の在り方を悪くして大切な物を失くしたり傷つけてしまったりすることに対して、人はもっと関心を持って良いのではないかと思われます。
あおり運転が悪い、ハラスメントが悪いと多くの人が騒ぎ立てますが、自分があおり運転をしない方法や、ハラスメントをしてしまわない方法を語る人はあまりいません。
でも、実際には必ず、世の中の悪意の連鎖のどこかに誰しもが関わっているのではないでしょうか。
だとしたら、その対策は?
それ謝大師の著書で常に語られていることです。
もちろん、謝大師のタオの行を行うことがすべてではありません。
というより、書かれているメソッドは正しい指導者が居ないと無意味どころか有害だと冒頭に必ず注意書きがありますし、内容は小周天を理解していないとほとんど無意味と言う、結構レベルの高い物なので難しいところがあります。
なので、お釈迦様の本を読んでもよいし、禅や瞑想をしてもいい。
自覚を持って自分の良くない感情をどうにかする方法をより多くの人が学ぶことは、世の中を良い物にするためにもとても大切だと思います。
何より、自分自身が気持ちよく生きてゆくことが出来る。