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念の力

 いつも読んでくださっている皆さんならご存知の通り、私はいつも憂いています。

 気内臓で身体を探ると、悲しみの気が充ちているのが読み取られます。

 この憂いや悲しみは原則、現象や概念に向けられていて、特定の一個人のようなところに向かっている訳ではないのですが、先日師父からもしそれが特定の個人に向かうととても危険だと言うことを教えられました。

 と、言うのも、我々は気功の行によって自我を失くし、世界そのものとつながることを常にしている物です。

 結果、法輪を通してある程度のつながりが感じられるようになり、それを基として生命活動を行っている訳です。 

 この繋がる部分があるがために、特定の誰かに強い憎しみや怨みのような物を持ってしまうと、それがその当人に繋がってしまうことがあるというのです。

 悪い念というのはある法輪を通してその人の中に入って行き、善くない状態に結びつけることがあると言うことでした。

 それらの穴所は非常に開きにくいところなのですが、もしかしたら外部から良くない物が入ってくるのを避けるために強くしまっている場所なのかもしれません。

 確かに私の知っている他人からの良くない影響に苦しんでいる患者さんは、その部分の一つが大きくはれ上がっています。

 そこを開いて体内の風通しを善くして上げようとこれまでいろいろしていたのですが、もしかしたらそれは危険なことになる可能性があるかもしれません。

 この良くない思いの影響という物、古い言葉で言えば呪いそのものです。

 少林拳には確かに、この念の力で相手の目を潰すというような術があるのですが、まさに呪詛のように受け取れます。

 このような悪意の念の落とし方も少し教わったのですが、私はオカルト的な側面に関しては非常に懐疑的なので、自分がそのような物を体感して対処することがあるかどうかについては分かりません。

 それはそれとして、これが呪いであるのだとしたら、古い言葉にあるように「人を呪わば穴二つ」悪い念を持った方にもとても良くない負担があるのは間違いありません。

 それよりも、常に「みんなが幸せでありますように」と祈っていることのほうが正道であるのは間違いがありません。これは、タイのお坊さんにかけていただいた言葉です。

 その気持ちがまずありきでこれまで進んできたのですが、それは同時にもし力の方向を間違えれば、あるいは無意識に良くない気持ちを持ったら、それが悪因となって世に悪を広めうるということを教えられました。

 やはり正しい伝統というのは、正しい人間にしかるべく受け渡されるべきなのでしょう。

 正しい行は自我を薄れさせ、大きな自然に命を預ける物となります。

 大自然には時に荒くれてとても残酷な力を持つ側面もある。

 それを抑え、中庸を取るにはやはり、哲学の部分が必要なのではないかと思われます。


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