今回の練習で、以前にフィリピンで習った「ペルソピア」という物を解禁しました。
これは両手にバストン(棒)を持ったバストン・ドブレのカテゴリーの物です。
アメリカにおけるイメージとは違って、実はフィリピンでのエスクリマにおいては両手にバストンを持ったテクニックはあまりありません。
左手を使うための練習としてはあっても、戦うための想定はしていないことが多いと聞きます。
というのも、多くの現代エスクリマの流派が大戦後に起きた決闘流行りの影響で実戦ではなくて剣士同士の一対一の決闘のための技術に改編されているからです。
こうなると、左手は開けておいて相手の武器を掴んだり相手自体を掴んで投げたり関節技を掛けたりするほうが有利だったからだそうです。
それ以前の時代においては、左手は短剣を持ったりピストルを持ったりしていたのですが、それらは決闘では反則だったので廃れていったようです。いわば、エスクリマの総合格闘技化のような歴史があったりしたわけです。
私たちの流派は、それ以前の流れを引いている伝統流派であり、大戦期のゲリラ戦やその後の内戦での白兵戦を想定して継承されてきたため、いまだに左手で武器を持つ練習が行われています。
その中に、左手でもバストンを持つ戦いの練習があります。
現代流派とは違い、相手に関節技を掛けたりするようなことはあまり推奨されず、そんな暇があったらとにかく打ち込め! ということがコンセプトとなっているのですが、それでも練習では相手の武器を奪い取ったり相手の関節を決めたりするようなことは行いはします。
ただ「そういうのはモダンのやることなんだ! 実戦ではとにかく打つんだ!」とあくまで余技であることを注意されてはいました。
その、うちからするとモダン的な動きの中に、両手に武器を持ったまま相手に関節技を掛けたり、はたまた相手の武器を奪ったりするカテゴリーの動きがあります。
手は武器を持っていて埋まっているのにどうやって? と思うのですが、武器をからませて行います。
大変に器用っぽい。
おまけに複雑です。
なので、これをやると相手の力の流れを読む力や、空間認識能力が訓練されます。
それらを用いて即興のピタゴラスイッチをとっさに作って機能させるという知恵の輪的な物がこの「ペルソピア」です。
ペルソピアというのはおそらく「フィロソフィー」のタガログ訛りであると推測されます。
つまり、哲学、概念というような意味で用いられていると解釈しています。
直接的に固定化された型がある訳でなく、一定の法則に従ってとっさに行うわけです。
そのため私も最初に習ったときにはちんぷんかんぷんで何をしているのかまったくわかりませんでした。
ただ、その見た目の複雑さに囚われずに本質的な力の流れと法則だけを観ようとすると、なんとなくこれが把握できてくるように思います。
そうなってくると、形式的な物を覚えるということではなくて力の方向を読んで自由に動くという能力が発達して、また一つ自由に命を活かす感覚が発達するように思います。
これはそのための練習であると私は思っています。
あまりこのようなことばかりに捉われていると、それは実戦では役に立つものではないぞ、と軍人である私のグランド・マスターに怒られてしまいそうなのですが、うちでは実戦のための練習ではなくて心身を自由にして生きるための練習をしているので、私のところではペルソピアは哲学の実践として大切に行ってゆきたいと考えています。