アカデミーのシーズンですね。
アカデミー賞は、業界内の身内のお祭りである、ということが公式にアナウンスされているそうです。
だからまぁ、主観的な物を身内同士で言い合ってるだけなのでクレームもご意見も受け入れる必要がないよ、ということですね。
この姿勢は、制作の現場とは関係の無い政治プロパガンダが映画業界に力を及ぼすような時代背景においては、とても気高い物であったことでしょう。
しかし昨今では、ステータスや収入に直結することからアカデミー自体があまりにも大きな権力をもってしまっており、いわゆる狙った映画が非常に目につきます。
数年前に公開された「バードマン」のように、エンターテインメント業界の裏話のようなことを描くと、同業界内から支持を得やすいのでノミネートがされやすいという手は非常に盛んになっています。
「ラ・ラ・ランド」などはもろにこの構造だしたし、今回ノミネートの「ジョーカー」などもまた同じ造りとなっています。
トランプ政権以降のハリウッド映画というのは、政治的な姿勢が目に見える形で表現される物が大変に増えたように思います。
公民権運動を扱う作品も非常に多いし、貧富の差や人種問題、性差などのダイバーシティを扱った作品も多い。
ジョーカーはそれらを配合した作品でありつつエンターテインメント業界映画であり、かつアメコミ映画というかなり周到な布陣で挑んだ作品でした。
しかし、実はすでにこの業界内幕ものが受賞しやすいというブームはすでに過ぎつつある気がします。
今回の作品賞ノミネートは、「フォードVSフェラーリ」「アイリッシュマン」「ジョジョ・ラビット」「ストーリー・オブ・マイライフ」「マリッジ・ストーリー」「1917」外国語映画として「パラサイト」そして「ワンス・アポンアタイム・イン・ハリウッド」と「ジョーカー」となっています。
このうち、業界内幕話は最後の二つです。
パラサイトは韓国の貧富の差を描いた作品で、「マリッジ・ストーリー」はカイロ・レンのアダム・ドライヴァーとスカーレット・ヨハンセンの離婚劇で「ストーリー・オブ・マイライフ」は若草物語の映画化作品、そして「ジョジョ・ラビット」と「1917」は世界大戦映画、「アイリッシュマン」はスコセッシ監督のギャング映画で「フォードVSフェラーリ」は実話をもとにしたプロジェクトX的な企業内対立物です。
こうしてならべると、確かに身内のパーティだということが少し見えてきます。
スカーレット・ヨハンセンは「ジョジョ・ラビット」でも出演していますので、彼女が今年とても寿がれていることが分かりますし、マーティン・スコセッシ監督は自分の作品でもノミネートされていますが「ジョーカー」も明らかにスコセッシ映画へのオマージュ作品なのでそこにある種の敬意の存在を見ることができます。
今回ノミネートされた9作品を観ると分かるのですが、いわゆる「黒人映画」、ブラック・ムーヴィーと呼ばれる物が入っていません。
これはアカデミーの伝統的な傾向で「身内のイベントだから」という言葉が無ければ差別的だと弾劾されかねない事態です。
しかし、身内のパーティに人が口を出すことはできません。
逆に、このノミネートからそのパーティの意図や嗜好を読み取ることが出来ます。
現代アメリカを描いているとしたなら、黒人種やヒスパニックの映画が入っていないはずがない。
ではこれは何を前提としているのでしょう?
おそらくは、白人種の社交界なのでしょう。
若草物語は南北戦争時代を舞台にした映画なのですが、ここです。
ここにこのソサエティの白人的アメリカ史の根っこを見ることが出来ます。
この、奴隷解放を争った米国における内戦が現代アメリカの精神的な土台となっていることは良く知られた話です。
普通なら忌みごとにされそうな同国人同士の争いを、アメリカでは古き良き時代として扱っています。
特に、奴隷制を保守した南部の人々はいまでもその時の気風を受け継いでいて、自分たちはアメリカの貴族のような物だと認識している。
それを扱ったジャンルの「南部もの」というジャンルがあるくらいです。
女性は麗しきサウス・ベル(南部淑女。大和なでしこみたいな表現)、男性は逞しいカウボーイか何軍将校というのが理想にされている思想です。
そのような経緯の上に若草物語に目を向けると、この物語の背景となっているコンコードという町は、アメリカ独立戦争の時に米兵とイギリス兵が最初の交戦をした場所です。
いわば、アメリカ独立の始まりの地です。
この、アメリカの戦争の歴史という目で見るなら「ジョジョ・ラビット」はまさしくアメリカが第二次大戦でドイツの首を討ち取って世界の主権を獲得したということが背後にはありますし、「1917」は第一次大戦におけるドイツ軍とイギリス軍の戦場を描いた映画です。
つまり、アメリカが独立する前のルーツであった国が同じ敵であるドイツと戦っていた時代のお話で、アメリカ史的にはVSドイツ戦のプリクウェルのような物です。
それで言うと、今度はフォードVSフェラーリというのはアメリカの工業力とイタリアの工業力の戦いの物語ですし、もちろんイタリアというのは第二次大戦期のナチス工業帝国の同盟国ですから、プリクウェルに対してシークウェル(後日譚)ともいえる。
そこから言うと、アイリッシュ・マンというのは、第二次大戦後のどさくさの中を生きてきたカトリック系移民の歴史を描いた話で、つまりはバリバリのプロテスタント的史観を描いた「若草物語」と対になっているとも言えます。
こうなってくると、まさか韓国映画の「パラサイト」は関係あるまい、となってくるとこなのですが、大戦後のアメリカにおける大金星の戦争と言えば朝鮮戦争。
朝鮮半島を南北に分かった戦争ですね。
それによって半島の南は資本主義圏、つまりチーム・アメリカとなった。
パラサイトが何を扱っているかと言うと、その資本主義圏における貧富の格差ですね。
つまりは、現代白人社交界の歴史観が如実に反映されているではないですか。
義務教育で習う世界史のことを、白人世界史だと非難する声もあります。
実際に、白人社会の経緯を縦軸としてきたものです。
これ、私自身も最近まで気づいていなかったのですが、白人種の社会に住んでいる人々には本当に冗談抜きで白人中心世界観というのが浸透しています。
彼らの世界が中心にあって、その周辺としてエキゾチックな諸外国があるという感覚です。
戦後の日本にもそのような世界の見方が広まりました。
私自身、80年代育ちなのでアメリカ大好きで来たのですが、しかしそれでも皮膚感覚として、アメリカが世界の中心だとか白人社会が中心だとかは思っていません。
いや、世界経済への影響力は多大な物であるに間違いないとは思っています。
別に私が共産主義に傾倒しているというわけでもありません。
それよりも、おそらくは伝統主義者であるからなのです。
中華の古典的な伝統に立脚し、その哲学を学んで生きる身としては、アメリカは昨日今日現れたポッと出の人達だと感じています。
ある作家の辛口な言い方を借りるなら「ただの商売人にすぎない」。
さらに言うと、それは多国籍のクラブのような物で、自分自身も参加したければ入会できるとも。
これは拡大するならその母体となっている西欧社会についても同様なところがあって、中国人が言う「我々がすでに紙を漉いて詩を書いていたころ、お前らはまだ裸で洞窟に住んで猿同然の暮らしをしていた」という見方に近い。
もちろん差別意識はありませんが、優越意識がアジアにあるようには多分感じていると思います。
中世から近世の西洋なんか世界で一番不潔だったとさえ言われてますし。
同じころの日本の識字率は世界でもトップクラスでした。
どうもそのような歴史的経緯を忘れて、たかだかこの百年くらいのことに目のうろこがすっかり染まってしまっている人々が非常に多いように感じることがあります。
実際アメリカ人に会うと、彼らが自分たちには歴史がないからとアイデンティティに揺らいでいることがよくわかります。
そのためか、アメリカ社会に飲み込まれたい日本人を見ると、彼らはニューカマーだと見なすのか軽んじた扱いをするさまを目にしますが、逆に自分たちの思想や伝統を明確にいていると大いに敬意をしめしてくれることがあります。
やはり、人の顔色ばかり窺っているのではなく、自分の価値観をしっかりもって立っている人間が信頼されるということなのではないでしょうか。