人が、人として命を十全に生きるには、驚きと喜びが必要である。ということを書きました。
気功学に曰く、驚きとは腎に宿る気であり、陰陽で言うと穏やかさと対になる物となります。
穏やかさだけを求めて生きてきた私は、結果命を弱らせることになっていたのではないか、というのがこの二つ、驚きと喜びの大切さに目を向けることになった理由でした。
歴史に触れ、人類の営みに触れ、驚き、喜びを感じるということは、知らない内に私がしてきたことでもあります。
オリンピックやバレエなどを始め、お相撲、大道芸、サーカス、武術など体育に属する物すべてが、この驚きと喜びという物によって享受されてきました。
そのようにして、まず見ることが好きだという層が広まった後、そこから自分でやってみようという人々が現れてくる、と言う形でそれぞれのジャンルが成り立っているように思います。
つまり、全体が驚きと喜びによってまず成り立ち、支えられているとも言うことが出来ます。
命はそういった、新鮮に世界を感じようと言う本能によって導かれてきたのではないでしょうか。
それは、穏やかに日々を生きようと言う望みと同じく大切なものであるように思います。
実は私には、昔から一つとても奇妙に苦手な物がありました。
それは「好き」ということです。
何かを食べる、何かを選ぶ、その時に理由が「好き」だからということだとすると、どこかで何かいけないのではないか、不純なのではないか、というような気持が常に付きまとっていたのです。
例えば子供時代、自分の祖父母のことが好きだと感じます。
しかしその理由が、お小遣いをくれるから、飴をくれるから、優しくしてくれるから、だとすると、それは一言で言うと自分にとって利益があるからだと言う、大変に醜い理由になるのではなかろうかという居心地の悪さに向かい合うことになっていました。
そのように、常に子供時分から何かを感じる時に「好きだから」ということを安易に理由にしては良くないのではないかという気がしてきました。
それは貪欲の道に通じるものであり、なにがしかとても間違ったことであるような気がしていたのです。
しかし、それをいま、好きとはなにか、ともう一歩進めたときに、そこに驚きと喜びがあるからだ、と言えるようになり、なにか長年に渡る拘束がまた一つ解けたように思いました。
好きということに対して慎重であると同時に、それに対して安心して向かい合えるように思います。
自分自身の感情、存在に対して安心が出来るようになるというのは、気持ちよく生きる上でとても大切な物になるのではないでしょうか。