アジアの海賊武術史を調べていると、中国と日本での時代のリンクについて知ることになります。
私が中学生時代に好きだった源平物でおなじみの平安、鎌倉時代というのは、中国史で言うと宋から元の時代となり、武術的に非常に興味深い時代です。
北方先生の水滸伝シリーズでは、梁山泊の不逞の輩たちがその財政を担うために日本と密貿易をしている描写があります。
取引先は、日本の王ではない別の有力な豪族であるというように書かれています。
ここで面白いのが、そのころに日本で宋銭を貿易していた最大の権力者というのが、実は平忠盛という人だということです。
忠盛と聞いてもピンとこない人が多いかもしれません。
この人、平清盛の父親です。
あの、平氏にあらざれば人にあらずとばかりに打ちあがり、しまいには無間地獄に落ちたという巨悪の代名詞、平清盛は父親による宋銭貿易の上りを土台に権力を手に入れていったのです。
清盛が源頼朝によって討たれて、平安時代が鎌倉時代に変わったのち、宋を滅ぼした金が元に飲み込まれて、それが元寇としてやってきます。
この元寇は失敗に終わるのですが、面白いのが元の侵略が大規模に及ん西側においては、東欧に蹴鞠が伝わったというのです。
蹴鞠と言えば宋の時代。というのは水滸伝好きの脊髄反射のような物でしょう。
梁山泊の好漢たちが憎む政治腐敗の象徴が、蹴鞠一つで成り上がった遊び人の高俅だからです。
元の領土拡大によってこの蹴鞠が東欧に及んだということは、中原の文化がそのまま元朝に引き継がれた、言い換えれば騎馬民族の王朝が漢化したということの一つの例である点が面白い。
この蹴鞠の発生は、紀元前の戦国時代であると言います。
元々は軍事の訓練として行われていたそうで、明の時代まで王宮や貴人の間で行われていたと言います。
これが日本に伝わったのはやはり仏教と一緒にであったようで、有名なのは中臣鎌足の大化の改新のエピソードに出てくるところでしょう。
ただ、これは日本書紀では「球を打った」と記述してあるそうで、蹴鞠ではない可能性もあるそうです。
いずれにせよ、蹴鞠は中国と同様日本でも武人のたしなみとして行われて、安土桃山時代までそれは続いたと言います。
同じ武家のたしなみとして、織田信長が相撲の方を奨励したため、それに伴って蹴鞠は衰退したのだというお話です。
東欧ではモンゴルによって蹴鞠が伝わり、日本ではモンゴルから伝わった相撲で蹴鞠が廃れるというのも面白い。
この蹴鞠、中国での物はサッカーのようにゴールに球を入れるものだったそうで、おそらくはセパタクローも流れがつながっているものであると思われます。
日本における蹴鞠はそれとはだいぶ違って、リフティングを回しあうという物だったようなのですが、その間にとんぼを切ったり、肩の上でバウンドさせたりとフリースタイル・バスケット・ボールのようなことをする、あるいみでカポエイラのようなエクストリームなムーヴの出し合いをするものだったようです。
この蹴鞠の名人として、毬聖と呼ばれた人がいます。
その人は藤原成通というのですが、なんと蹴鞠に打ち込むこと二千日以上。雨の日も室内で訓練をし、病の日でも床の内で毬を離さなかったと言います。
その結果、人の上に乗ってサマーソルト・キックのように毬を蹴ってなお下の人に重さを感じさせなかったり、清水の舞台の欄干の上をリフティングしながら往復したなどと言う軽身功の達人の域に達してたというお話が残っています。
そのように入神の域に達していた成通の名は天下に知られるようになるのですが、ある時に鳥羽上皇に呼び出されて問われたそうです。
「成通よ。汝が早業(かるわざ)を好むのは何の詮がある?」
それに対しての成通の答えが振るっています。
「なんの得もありません」
これこそまさに、求道の在り方ではないでしょうか。
ただ、驚きと喜びに導かれて、毬聖は入神に至ったのでしょう。