私は本当に才能がなくて、自分の学問の道を行くのに必要な外国語がいつまでたっても上達しない。
ようやく最近になって少し体感が変わってきたけれども、そこに至るまで十年かかっています。
その上でいうなら、そこで見つけたことは「日本人にとっての英語は結局、日本で学んでいる限り外国人の英語の域を出ない」ということ。
これは、日本に長く住んで会話に困らない英語圏の人が日本語を話しているのを聴いても同様なのだから、きっとそういう物なのでしょう。
しかしこのことを侮ってはいけません。
明らかに外国人が話す日本語を話しながらも、そのクオリティで会話や読書が出来るという言語が、たくさんある人はいっぱいいる訳です。そういう人が語学の才能がある人なのでしょう。
最近知ったユダヤ人の博士は、十か国語を超える言語が話せるそうです。
彼はハンガリーの移民だそうなのですが、世界的にも珍しく難解だと言われるハンガリー語を母語としていることはヨーロッパでの活動において不便だということで、少年期からドイツ語を学ぶことになったのが始まりといて、語学の楽しみを知っていったと言います。
語学のみならず、大道芸もするなど非常に多才な人のようなのですが、本人曰く本当に才能があるのは数学だけだと言います。
その道を自分の本道として歩いてきたのですが、どうも数学の世界の人間というのはつまらない人が多いのだと感じていたそうです。
本人の言葉によると「天才とバカは紙一重」だそうで、自分の周りには全然魅力の無いつまらない人間ばかりだったと言っていました。
それが変わったのは二十歳くらいのころに、数学界の大物の教授と出会ったのがきっかけだったそうです。
その師匠はとても面白い人で、屋根の上で逆立ちをしたり宙返りの仕方を教えてくれたりとするような人で、大道芸の達者だったと言います。
この教授に憧れた彼はそのまま自分も大道芸の道に入り、面白い生き方をいまも追及しています。
芸も言語も、才能があるからではなく好きで面白いからやっているのだという認識であるようで。
その彼の生き方には、ユダヤ人としての生い立ちが強く影響を与えていると言います。
彼の父親は迫害を受けて、財産を没収されてしまったことがあったそうで、彼に「人間の財産は自分の頭と心の中にある」と教えて育てたそうです。
そのような人が学問と大道芸、すなわち、驚きと喜びの道に進むのは大変得心のいくお話ではないでしょうか。
そのようにして、学ぶということが人にとって大切だと感じる彼にとっては、多くの国にある徴兵制という物は若い人から学問の機会を奪う仕組みだと感じているようです。
反面、そこには最低限のことをしつける教育の効果もあるようだと認めてはいるようなのですが。
もちろんそれに対しては一定のラインまでだと感じているようで、日本の学生に関してはアルバイトと部活に時間を割きすぎて学ぶ機会を逸しているのではないかと言う発言をしたこともあると言います。
そして、その後会社に入って一生しがみついて管理されて生きることに対して「軍隊に居るのと変わらない」とも発言しています。
この見解は、私の社会の見方と大変に共通しているように思います。
物を学ばず、つまらない人間として一生を疑似的軍隊制度の中で生きる平均的日本人……。
学問を愛好する人間の偏った見方だと人からは見えるかもしれません。
学問を愛する面白い人として生きたいという彼の姿は、私の理想そのものです。
そういう人がこの世に居てくれて、本当に良かった。