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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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民度

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 最近、二つのところで「民度」という言葉を耳にしました。

 一度は、カジュアルな哲学の本を書いたという方の言葉です。

 その方は、日本人というのは精神的にまだ発展途上国なんだと言っていました。

 衣食足りて礼節を知るというけれども、まだ衣食が足りたばかりで礼節を知るに至っていない。

 どれだけお金や物質を持っている人でも、精神的に幸せに至っていない。

 もう一度は、ユーチューブ上でです。

 フィリピンでのロックダウンの様子を毎日ウォッチしているので、現地から放送してくれている人たちの動画を観ているのですが、その中の一人の方がフィリピンの人について語っている中で「民度」を口にしたのです。

 曰く、フィリピン人の民度は低い、とその人は言っていました。

 仕事や将来への設計について、平均的にはとても低いと。

 面白いのは、やはり彼もまったく同じく「衣食足りて礼節を知ると言いますが」と続けていたことです。

 この二つの言葉は同じ故事から発生しているものなのでしょうか。

 フィリピンは掛け値なしの発展途上国で、まだまだ多くの人が衣食が足りているとはいいがたい状況です。

 スラムの人たちは、狭い家に大人数で住んでいます。

 家にはトイレがありません。

 共同の公衆トイレを使うのです。

 そんなところに新型コロナウィルスが入り込んだら、ひとたまりもない状況です。

 しかしそれでもそれは家のある人々で、もっと苦しい人たちは河原にトタン板で小屋を張って部落を作っています。

 それはとても、衣食が足りているとはいいがたい。

 フィリピン在住の方は、そのことが当然日常的に視野に入っています。

 ただ、その方は、フィリピンの人たちには心はある、と言っていました。

 この、二つの「民度」はとても対照的です。

 初めの方が言っていた民度と、二人目の方が言っていた心とは私には似通っているように見える。

 いままでいつも書いてきた、日本社会に致命的に欠けている物、それが私には民度に反映する気がします。

 戦後、この国はいまのフィリピンより悲惨な状態から経済的には復興してきました。

 その過程で物質を得る手段には専心してきましたが、心の問題は常に置き去りにされてきた。

 だから我々は、民度が足りない。

 物があるだけで、心が欠けています。

 フィリピンの人たちには信仰がありました。

 それが彼らの心の支えになっていたのであろうことは想像に難くありません。

 早いうちから道徳を捨て去ってただただ物質を求め続けた結果、日本人の精神は物質化しているようにさえ思えます。

 とてもいびつだ。

 この問題は、近代以降顕れたものではありません。

 そもそもが、ガンジス分明が発足し、人類が文明化したころからある問題です。

 だから釈尊は、人心を救う方法を求めて、それを悟りや智慧と呼んだのでしょう。

 悟りも智慧も、自分で考えて、体感して得るものです。

 お金や物で購うものではない。

 私たちはいま、古くから伝わる自覚の道のすべを練習する会を開くこともできませんが、こうして発信を続けています。

 こんな状況になれば、多くの人が危機意識から目を覚ますかと思っていましたが、相変わらずわがままな行動をしたり、人のせいにして逃避しようとしたり、無関心で無防備に密集状態を作ろうとするような人たちがたくさんいます。

 ロックダウン下できちんとルールを守ろうとしている、多くのフィリピンの人たちとは、命や現実に対する視点が大違いです。

 こんなところでこんな文章を書いていることはまったく無意味かもしれない。

 それでもこうして、誰か一人の心にでも何かが届けばと思って、部屋でキーボードをタイプしています。


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