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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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愛洲氏の謎

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 海賊武術と倭寇のことを考察する上で、本朝において注目するべき存在に陰流剣術があります。

 倭寇武術の一端を担う存在であり、倭寇が影流(こう表記)の伝書を落としていった物を回収したと中国史にも残っています。

 倭寇の必殺戦法である胡蝶の陣に関しても、この陰流の戦い方が元になっているのではないかという説もあります。

 私個人としては倭寇において真倭(本当に日本人)が少なかったこと、およびその中においてどれだけ陰流が広まっていたか不明であること、および詳細を読むにどうもむしろ洪門の双刀武術の典型に近いように思えることなどからこの説には疑問を抱いています。

 とはいえ、この愛洲陰流が海賊武術であったことには疑いはありません。

 その詳細を知りたくていくつか本を読んだりしてみたのですが、小説などではほとんど創作メインになっていてどうもわからない。

 福建に渡ったともそこから北京に北上したとも書かれていますが、確かなことが分かりません。

 ただ、愛洲陰流に関する物とは関係ない海賊のことを書いた本を読んでいると、急激に愛洲氏のことが出てきたりします。

 それらによると、どうも彼らは伊勢の畠山氏の配下にあった一族らしい。

 伊勢と言えば伊勢神宮。

 となるとそこには自社勢力があるわけで、愛洲氏も神宮の守護を担当していたのですが、この時代の自社勢力というのは恐ろしく評判が悪いのです。

 平安時代から、僧や神人というのはほとんど荒くれものの代名詞のようになっています。

 悪僧や荒法師、悪神人という言葉があり、暴動や揺すりたかり、押し込みまがいのことを平気で興しています。

 こういった連中の劣悪さには、それぞれの上層部に居た人たちも手を焼いていたらしく、まぁ上のヒトたちが命令を出してもまったく言うことを聞かなかった。

 なので、外側からだけでなく、内側に居る危機に対する圧力としても愛洲士族のような力が必要になるのです。

 となると、神社というのは、江戸時代に戸籍管理に関わる通り、氏族の伝播によって分社をされたりしてゆく物ですので、愛洲一族もどうも海路経由であちこちに移動があったようなのです。

 日本の海賊について書かれた本を読むと、1559年に書かれた北条市の文書「小田原衆所領役帳」という物に横須賀の浦賀には海賊が巣くっており、その連中の名前に愛洲氏も挙げられていました。

 やはり彼らは、ある時から明確に海賊衆として活動しているのです。

https://www.youtube.com/watch?v=GBuDEJTYf3Y


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