三蔵法師を乗せる馬と言えば、これは龍です。
それも龍王の子という大変血筋の良い公子なのですが、これが入り婿に疎まれてえん罪を着せられてしまっていた。
そこを観音様に救われて天竺旅のおともをすることになりました。
彼の場合はえん罪からの救出なので、だいぶほかの三人とは趣が違いますね。
大罪、不敬罪、過失、えん罪と各人グラデーションがある。
彼らの旅を妨害する妖怪たちですが、これはもともとは妖仙とされている。
封神演義と同じく、妖仙達です。これは、出自が人間でない仙人ですね。
代表的なのが牛魔王、虎力大仙、羊力大仙、鹿力大仙などの動物が歳を経て仙人になったという、基本的にベースが人間か動物かと言った程度の違いの人達です。
八戒や沙悟浄が地上の人から天兵になったのと同じ、道教の転身の思想がここにあります。
彼らは、元々の動物の性という因果があります。
これに対して、やはり孫悟空は特別なのです。
彼はサルサル言われてますが、そもそもサルですらない。
サルに似た形の石です。
物です。無機物ですよ。
地球の一部ですよ。
地面です。
地面というとこれは世界の始まりにおいて、混沌が陰と陽の気に分かれて、重い物が沈んで地になり、軽い物が浮かんで天になったと言いますから、やはり地面の身体が天の気を受けて動き出した孫悟空は小宇宙としての純度がひときわ高い。
その純度を持たない妖仙たちは、そのために三蔵法師の身を求める訳ですね。
食べれば自分たちが清められると思っています。
そうすることでさらに上の転身が得られると思っている。
これは、すべての物は気であり、その気が変化し、混合されることで別の物になるという道教的化学変化の考え方が如実に伺えます。
外部からの物を取り入れるのですね。
先に動物から転身した妖仙を上げましたが、実はほとんどの妖仙は三蔵法師のお供達と同じ、転落した天兵であることが多い。
天界の香炉についていた童子の像であるとか、天界の池が氾濫した時に落ちてきた鯉であるとか。
それらやんごとなき身分の者たちが、ワイルド・サイドの下界に落ちてきて一気に品行が下がってしまう。
これもまた、八戒と同じ、落ちた先の気を受けてしまっている訳ですね。
だからこそ、正常な天界の気である三蔵法師を欲しがる。
転身して上に上がると言うことは、同じく下にも落ちる訳です。
そしてそこからまた這い上がりたいともがいて余計にやることが悪くなって駄目な存在になってゆく。
身につまされる話です。
いわゆる輪廻転生、天人五衰的なところがあります。
その、上に居ても落ちることあって安定しないという不安から解脱しようというのが仏教ですね。
だから、仏教の大乗を手に入れて世を平定しようということの障害として彼らが現れる訳です。
衆生を皆救おうと言う大乗の行としての旅であるからこそ、三蔵法師らは彼らを殺めまいとし、それぞれを元の場所に返してあげたりします。
まぁ、元の位が無い物は殺してしまったりもするのですが。
その繰り返しでね、三蔵法師ら一行は天竺にたどり着いて唐の都に大乗の経典をもたらすという目的を果たします。
この時、天竺に着く直前で三蔵法師は俗胎を離脱します。
菩薩に導かれて川を渡ると言う行の途中で、肉体が死体となって川を流れてゆくのですね。
これ、道教の屍解仙と同じ感じですね。
妖仙たちと違って、肉体を離れて、死のイニシエーションを経ているのですね。
そもそも、妖仙たちもこの旅路を行とするために天界が放ったイニシエーションだったともいいます。
まぁ、各々軽重はあれど罪ある者たちの贖罪のお勤めですから。
中国小説はこの辺の陰謀が凄いところですね。
こうしてすべての苦難を乗り越えた五人は罪を償ったことを認められて仏さまになります。
三蔵法師は栴檀功徳仏という仏様に。
孫悟空は闘戦勝菩薩という勇ましい名前の仏法の守護者に。
猪八戒は浄壇使者というお供え物の守り手です。
沙悟浄は金身羅漢という大変ありがたいお坊様に。
白馬は八部天竜という物に。
こうして彼らは各々が持っていた罪から解き放たれるというお話です。
人は誰でも罪や過ちを犯します。
他人のそれを許し、自らの物は行にて償うというこのことが、大乗の教えだと言うことに通じるのではないでしょうか。