一世代に一度、世界的な危機が訪れるという説があります。
私たちにとってはこの世界的な衛生危機がそれに相当するのは間違いないでしょう。
そう考えてみれば、いまの私たちの状況は比較的恵まれているようにも思えます。
ネットも出来るしテレビも見れる、食べ物がなくて飢えている訳でもない。
もちろん入浴も出来るし空調も利かせられます。
ただ、人間間の交流は多く遮断されています。
これが苦しいという人もたくさんいます。
そして、だからこそ、人間の本質が暴き出されているのではないかと感じている人も多いことかと思われます。
私の師父も、自分たちがどういう国に住んでいるのかを見せつけられているようだと言っていました。
また、これは人間性の試金石になっていると書いている先生もいました。
伝統側の話からすると、こういうときにやはり物の普遍性のような物が問われるように思います。
上に書いたように、今回の世界の危機はこれまでの歴史を振り返ってみればだいぶ救いのある物のように思います。
文明の進化のおかげです。
その進化があるからこそ、可能な物や変わってきたものというのが世の中にはたくさんあるのではないかと思われます。
本当に伝統的な物というのは、そういった時代の末節に関わらず、常に本質的なところに常にあるのではないかと思っています。
というのも、歴史上幾度となく人々の危機は繰り返されてきており、それらの時に対応するように伝統思想や文化というのは作られてきたからです。
そういった風雪を乗り越えて伝わってきている訳です。
なのでいま、この事態に対応できないという物は、やはり一過性の近代文明の上になりたった比較的新しい物が多いように印象を持っています。
仏教武術は当然、生老病死という仏教が見据えるべき四苦に向き合うことが当然組み込まれて成立しています。
こういった状況で真価が発揮できないようでは存在の意味が薄れます。
こんな時だから武術が出来ない、のではなくて、こんな時だからこそ有効性が発揮できる。
どうしてもね、近代文明が発達している環境、日本では明治以降ですね、そのあたりから起きている武術、武道に関して言うと、人と組んで行う物が中心となっています。
これは江戸末期から武術が庶民のレクリエーション化をしてきたという土台があるからでしょう。
西洋では近代スポーツ、およびそれによって復興されたオリンピック・スポーツのうちにもそのようなコンタクト・スポーツがたくさん見られますね。
緊急事態宣言の解除によって、ゴルフやテニスなどのスポーツの解除は先行して進みそうですが、コンタクト・スポーツに関してはどうしても後回しになることでしょう。
中国武術や少林拳は、一人で行う練習が中心で現実的ではない、という批判をしてきた人たち、あるいは疑問を持っていた人たちはさぞ多かったことかと思われます。
しかし、いまのこの状態になって、果たして一人で向上をし続けられるように出来ていることがどれだけ意味を持っていたかを知ることになるでしょう。
これはね、決して偶然ではないのです。
仏教武術は、初めからそのように考えられて作られているのです。
山にこもって行をしたり、人のいないところで禅として行っていますので、他人と一緒にしないと出来ないということでは元も子もない。
これは、四苦のうちの老や病という物を考えられているはずです。
また、同じく仏教武術であるムエタイ、いわゆる古式ムエタイ、カビー・カボーン、ムエボランと呼ばれる物は、実はあまり相手を殺さないように技術が組まれていると言います。
どちらかというと相手を吹っ飛ばしたりしてやっつけるにとどめることが重視されているそうで。
その理由は、彼らの戦争というのは相手の士気を砕いてやっつけたあと、敵兵を殺さずに捕虜にして自分たちに取り込むためだというのです。
なぜそこにこだわるのか。
それは、豊饒な自然環境のタイの地では、食べ物が手に入りやすい反面、定期的にジャングルから疫病が発生したためだと言うのです。
そうなると、不意にたくさんの人が居なくなってしまう。
そのような時に、しょっちゅう攻め込んでくるミャンマーなどの軍がやってくれば無力です。
であるので、国力を確保し続けるために常に人を資本として補給できるように、命を大切にしてきたのだと言うのです。
命を大切にすることが、大きく見たときに全体の益になる。
ここにまた、現実的な理と文化を見るように思います。