目を閉じると感じられるものがある、と少し前に書きました。
映画「スター・ウォーズ」シリーズの中でも、主人公がフォースと言う力を発揮する時には目を閉ざして自分の感覚に従います。
フォースは翻訳では理力と訳されていますが、この理と言うのは宋の時代の思想である朱子学の言葉です。
朱子学は実は道思想と対立する儒教の一派でありながら、陰陽思想を取り入れた革新的な派で、理とはすなわち陰陽(太極マーク)に象徴されるタオのことだそうです。
我々が「タオにのっとって生きよ」と言うのと同じように、朱子学では「理に従う」と言います。
スター・ウォーズではこれをフォースと言っています。すなわち、フォース=理=タオです。
フォースの真実を求めて偉大な師父であるヨーダに師事をしにいった主人公は「お前はなにを求めている? 冒険もスリルと興奮も、我々は求めていない」と基本、彼には道を得ることが出来ないと諭されます。
それでも修行を始めた主人公でしたが、なかなかその力を得ることはできません。
それに対して師父は「お前は初めからできないと思っている」「できるかできないなどない。やってみるもない。ただやるだけだ」と言われます。主人公はフォースを得るには「怒りっぽい」「修行を始めるのが遅すぎる」だそうです。
これは、英才教育の有無という問題ではないと思われます。
自我が心を濁らせているということだと感じます。
我々の修行では、目を閉じれば感覚が開くというところから始めます。
次の段階ではほかの五感にもとらわれないことを目指します。
感覚器官である五感は、同時に自我の影響を受けやすくもあります。
恐れや驚きなど、自我が感じたがっている幻にあまりにダイレクトに影響を受けます。
心の目を閉ざす。自我の波立ちを鎮めることで、その奥にある体の深くが感じていることがわかってきます。
霊が見えるとか、運命が見えるなどと言うまじないの類を我々が否定するのもそこにあります。
それらは気功で言う「気」であり、あくまで物質的な感覚、幻、文字通り気のせいにすぎません。そこにとどまってしまうことを魔境と呼び、典型的な迷い道としています。
自分にそのようなことを感じさせるさらなる根本にせまってゆくことがより真実に近づく道です。
これは術にも言えます。
気功で行う武術であるカンフーでは、技を高いものとはみなしません。そこにはまだ、自我がある。
目標としているのは、その先にある、天地の法(タオ)に従った「術」です。
彫像の達人が、作るべき形は初めから素材の石の中にあって、掘り出されるのを待っていると言ったそうです。
我々の言う「術」とは、その、あらかじめ存在している道理を感じ、そこに従うだけのものです。それをするには自我は少しやかましすぎます。
このように、自分の心を澄まして空虚にすることでそこに真実が流れ込むようにすることを「虚」または「無用の用」と言い、大変重視します。
「フォースとは何か?」と問われたヨーダは「それは自然のすべてに働く力だ。そこにもあそこにも常にフォースがある」と答えます。
後付けで特別な何かを獲得するのではありません。
初めからずっとあるものに気づいてゆくのです。
そのような時、心身は無理なく天地に一体化し、自我による疲弊や損傷から回復をし、命が充足していると言います。
このような状態を游と称します。水の流れの中で自由に遊んでいるというような様です。
我々がライフスタイルとして提唱しているのは、このような状態の生き方です。