この、アメリカが神の信認を得るというお話において、東洋社会や中東は一切活躍しません。
それまでは主人公の能力の根拠となっていた東洋の秘法、仙道は登場しません。
代わりに、主人公が学んでゆく能力なのですが、これ、イタリアに伝わる秘法です。
イタリア。ローマ・カトリックですよ。
つまり、世界中からの参加者が出てくるこの大会ですが、実質白人社会におけるイニシアチブを争う話なんですよ。
中東のサルタンも、モンゴルのハーンも、出てくるだけでまったく話の流れには関わってきません。出た傍からリタイアする頭数合わせ異常ではありません。
あくまで、プロテスタントが世界を支配する優位を握るか否かっていうところに基準が絞られています。
主人公のジョニィ・ジョースターは天才ジョッキーだったのですが、傲慢の咎によって下半身不随となっています。
余談ですが彼がこの怪我を負うくだりは私の好きな映画「スーパー!」のエピソードを思わされます。
下半身不随でどん底になった青年が、のちに師匠であり親友となるイタリア人の青年、ジャイロと出会い、彼が継承している家伝の能力を学んで行きながらレースを走るという流れになります。
このジャイロが伝授するのは、世界に働いている黄金律の力を引用すると言う、西洋的自然主義だということになっています。
これが東洋的なタオの技術である仙道の代わりなのですね。
この作品、それまでの掲載紙であった少年ジャンプを離れて連載されたため、各所に少年誌では出来なかった要素がぶち込まれています。
例えば、未成年の少女のヌードであり、同性愛者の権力者女性であったり、あるいは同性愛者を思わせる強敵であったり。
そう言った中で、特に強調されているのが、主人公が善ではなく、敵役が悪ではないというところです。
荒木先生のマンガに対する姿勢は明言化されています。
物語は、下から上への一本道であり、他のルートはたるいし進みが停滞するとつまらない、という物です。
ジョニィも半身不随で何もない、という状態からレースを走りぬくという個人的な目的に専念しています。
彼にとってはスポーツとしての個人的なチャレンジなので、正義も道徳もありません。
むしろ、人類平和を彼なりの形で臨む、ヴァレンタイン大統領が正義の心を持っています。
このヴァレンタイン大統領、私心のまったくないすごい人物です。
物語の中での各人の持つ特殊能力と言うのは、潜在意識など心の中が具体化した物だとされているのですが、大統領のそれはパラレル・ワールドから物を移動させる能力です。
つまり、他の次元から同質でありながらもっともクオリティの高い物を優位に選択できる能力なのですね。
そこに彼が手に入れた聖人の遺体の能力、つまり現象としての神からの承認の能力が加わります。
私の友人が曰く「吐いちゃいそうになるくらい強い能力」なのですけれども、それがどのような物かと言いますと、一言で言うなら「神の祝福」なのです。
ゴッド・ブレスです。
この祝福を受けていると、その人間の周りは「吉良」で満たされていて、あらゆる不幸が近づくことができません。
もし、不幸が接触するとどうなるかというと、その因果はどこかに吹っ飛ばされて、関係ない誰かが代わりに被災するのです。
自分が支払うべき不幸を、代わりに「どこかの誰か」が支払うべきことになると言う能力です。作中ではまったく関係ない遥かな場所に居る漁師がいきなり不幸を被ったりしている姿が描かれていました。
この、いわば自分が払うべき対価を地球の裏の誰かに代わりに払わせるということ、これ、分かりますよね?
つまり、これが資本主義の頂点に立つということです。
階層を作り出して自分がその上位に鎮座して、下に払わせて自分が吸い上げる。これが資本主義です。
資本主義とは何か? 白人優位主義です。
私の友人が「吐きそうになるほど強い」という大統領の能力なのですけど、一つだけ欠点が作中で描かれています。
それは、パラレル・ワールド間で物を行き来させることは出来ても、一つの次元に同じものを二つ維持することは出来ないという制限なんですね。
だから、百の世界から同じ100ドルを持ってきて10000ドルにすることは出来ない。
同じものは一か所に一つしか存在できないんです。
だから、交換することしかできない。
これを作中では軽い感じで「お金持ちにはなれない」と表現しています。
なので、お金持ちになりたければ、交換のマジックで利鞘を上げていくしかない。
初めから、絶対数は限りがあって、その限られたパイの中で交換していきながら利益を上げる。
資本主義です。
交換の制度において優位な席をしめたものが、優位な取引をすることで不利な人間から利益をどんどん増やすことが出来る、資本主義のシステムそのものなんですね。
この吸い上げのシステムを世界中に広めることが、プロテスタントが一方的に言う「野蛮な他の人種に文明を敷くこと」であり、つまりマニュフェスト・ディスティニーです。
こう書くとフン族のアッティラだとかの蛮族の支配みたいに受け取れそうですが、これがあくまで信仰に基づいた正義感からの行動である、ということがこれまで書いてきたマニュフェスト・ディスティニーの本質であり、アメリカ合衆国大統領という人達の実相です。
完全に無私の存在で正義の塊である大統領は愛国心と信仰心に基づいて「みんなのため」に命がけで生きているのですが、この大統領の「みんな」には強力な選民思想のフィルターが掛かっていることはこれまでに繰り返し書いてきましたね。
実存として間違いなく正義のヒトでありひとかどの人物なのですが、その視界の中にどこかの国の知らない裸の漁師のことなどは皆目存在していない。
公共のためにすべてをささげつくしていますが、その公共の概念には強烈な限界が存在しています。
この正義の敵役を打ち破ろうとするために、個人的な動機を抱えた主人公は「悪意の炎」を燃やします。
どっちもどっちのようですが全然違います。
主人公は純粋に「俺のため」だけに生きています。アメリカ国民も世界の文明もまったく頭にありません。俺の幸せのことしか考えていません。
自分勝手な目標を断固としてかなえよう、邪魔をする相手には悪意を持って打倒しようという、珍しいタイプの主人公がここでは描かれます。
主人公なのに、本気を出した時には瞳に真っ黒な炎「漆黒の悪意の炎」が燃え上がって描かれるのです。
さらに言うと、彼はレースで敗北します。
悪意のヒトの上に、そうまでした勝負でも負けるのです。
これまで荒木飛呂彦先生が決して書かなかった、敗北する主人公です。これは王道の少年漫画では決してやってはいけないと彼は語っていました。
それをやるのです。
少年漫画雑誌を離れたから出来ることでしょう。
敗北したジョニィは、死亡した師匠の亡骸を抱えて、それを彼の故郷に埋葬するためにイタリアに旅立ちます。
そこでこの作品は終わるのですが、この時のかれは、笑っているのです。
勝利して、繁栄に向かうであろうアメリカを離れて、カトリックであるイタリアに帰ってゆく。
そして、その時に満足そうに笑っているのです。
これ、勝利がすべてだという少年漫画の価値観とは違いますね。
敗北をし、古い伝統の中に抱かれてゆく姿が主人公の最後の姿なのです。
すごくないですか?
自然回帰思想を身に着けて、世界の競争社会から離れて古い物を埋葬する旅に出るのです。
満足そうに。
これは、人間の生き方について描かれているのだと思うのです。